監督:野村芳太郎
出演:志乃(岩下志麻)、与力・青木千之助(加藤剛)、喜兵衛(加藤嘉)、蝶太夫(田村高廣)、医者・海野得石(伊藤雄之助)、園(左幸子)、左吉(西村晃)、おつる(市原悦子)、丸梅源次郎(岡田英次)、ほか
原作:山本周五郎
製作:1964年
わりと江戸時代の人情物を得意とされる山本周五郎さんには珍しいと思った、壮絶な復讐譚。
監督はかの「砂の器」を撮られた野村芳太郎氏、原作は山本周五郎さん、主演が岩下志麻さんときて、良くないわけがな〜い! しかも共演も芸達者な方々ばかりで固めております。全然予備知識なく見始めて、復讐譚だと知って驚き、思わぬ出演者にさらに驚きでした。いや〜、いい映画ですよ、これは。
三味線弾きの蝶太夫が銀のかんざしで殺され、現場には椿が落ちていた。さらに悪徳医者の海野得石も同じような殺され方をし、現場にはやはり椿が落ちていた。2人を殺したのはまだうら若いおりう、あるいはお倫と名乗る娘だったが、その目的とは…。
復讐譚と書きましたので、ヒロイン・お志乃の復讐なわけですけど、第1部で彼女が復讐するに至った経緯を2つの殺人も絡めてじっくりと描きます。ここの父親、喜兵衛役の加藤嘉さんがええんですなぁ。むさしやという薬問屋に婿養子に入り、商売一直線で酒も煙草も遊びもしないど真面目な人物。その妻がおそので、これが喜兵衛とは正反対、淫蕩で遊び好きな女。喜兵衛が商売に励んだあげく、労咳に倒れても、生活を悔い改めるでなし、男を漁り、遊びほうけます。志乃は12歳ぐらいまでは母親と一緒に遊んでいたと言いますが、次第に父親贔屓になり、病に倒れてからは完全に父親中心の生活をしていました。
ところが! その大事なおとっつぁんがいよいよ危ないって時に、子役上がりの役者と遊び歩くおその。そして、死ぬ前に言いたいことがある、と無理を押して出かけたところ、喜兵衛は途中で亡くなってしまい、母親の住む亀戸の寮に連れていったものの、一つ屋根の下で亭主の死体があるっていうのに、自分の生活を悔い改める様子もない上、さらに愛人と飲んだくれ、しまいには「喜兵衛はおまえの本当の父親ではない」と言い出します。それも、父の死を嘆く志乃に、「おまえがあんまり悲しむものだから、そんなに悲しむことはないんだよ」というのがその理由だってんですから、相当な悪ですな、この女。
敬愛する父が実の父でないことを知り、ショックを受ける志乃。自分に流れているのは父の血ではなく、淫蕩な母と、その相手。ショックのあまり、母親を殺して自分も死のうとしますが、そこではたと思い当たったのは、母親の遊び相手の男たち。まだ死ねない、と志乃は寮に火をつけて、母親とその愛人を殺し、父を火葬にし、行方をくらましたところで第1部完、といよいよ第2部へ。
映像がですね、江戸時代かくありなんって感じで、さすが映画っていうか、監督のこだわりか、安っぽいセットじゃないのもよいですね〜。先日、某国営放送の時代劇見てたら、なんかがっかりしたんで。1960年代にこんなに江戸時代らしいというか、時代劇らしい舞台作れるんだから、現代ならもっと凝れるだろうに…。
着々と復讐を成し遂げていく志乃と、それを追う青木。
見ている時は全然気づかなかったのですが、おそのにさんざん男を紹介して、今は娘に岡惚れしつつ、手助けしている左吉って、西村晃さんだったのな! 確かに、若い頃のこの人は悪顔だわ〜 水戸黄門はこの人のがいちばん好きなんだけどな〜
そして、とうとう5人目の男(タイトルの「五辨の椿」もここに引っかけとるわけですが)に復讐せんとした志乃は、その丸梅源次郎自身から実の父親だと知らされ、ほかの男のように殺してしまうより、自分は殺人犯として捕まる。そしてお白州ですべてを白状するから、おまえは生き地獄を生きるがいいと見逃すわけです。
でも、この映画の真骨頂って、この後の展開にあると思うの。ついに牢獄に入れられた志乃は、磔獄門がほぼ決定的な囚人でありながら、さばさばした表情でその時を待ち、手持ちぶさたに同じ囚人の乳飲み子の服を縫ってやったりしています。計6人も殺し、実の父親を破滅に追い込んだとは思えぬすがすがしさです。本人は労咳で死んだ父親の復讐のため!という大義名分があるつもりなので、後は裁きを待つのみでしょうし、殺された6人もそれぞれに嫌われ者だったり鼻つまみ者だったりして、与力の青木も「娘の犯罪を肯定したい気持ちになる」とか言い出しちゃったりして、よくやった的なあっぱれ感さえ漂うわけです。
ところが、そんな連中にも家族なりいるわけでして、ほんとに孤独な人間というのは、ほんとにごくまれなわけでして、丸梅源次郎の妻が、店は閉鎖して、夫はそんな極道だってんで、絶望のあまり、自殺してしまったのでした。
ここで、青木は死刑を待つばかりの志乃に気を遣い、そのことを話さないでおいたのですが、人の口に鍵はかけられぬもの、牢番からそのことを知った志乃は、自分が正義だと思ってなしてきた復讐譚が、見方を変えるとただの殺人に過ぎなかったことに初めて思い至り、罪の深さに恐れおののくのです。
原作ではどうやら、志乃は青木にすべてを白状して、自分はとっとと自殺してしまったようなのですが、それって、あんまり自分勝手でしょ。なんというかな、それではあまりに一方的すぎるのではないかと。志乃の父親が病死したのは母親に原因があったかもしれないし、彼女とつき合った男たちも、その行為は決してお天道様の下に出せるようなものではなかったと思うんです。でも、志乃がまるで正義の味方みたいな顔をして男たちを殺して、自分ははい、さようならではあんまり都合が良すぎないかと。一寸の虫にも五分の魂じゃないけど、どんな悪党にも家族というか、その死を悲しむ人があるのではないかと。だから、俺は死刑に懐疑的で、まるでリンチのように死刑という今の風潮が嫌いで、その大合唱には乗りたくなくているのですよ。
だからこそ、丸梅源次郎の妻の死で、初めて自分の罪に気づいた志乃、処刑をすがすがしく待ち望んでいた志乃が、初めて己を死を恐れるという映画の展開は、原作以上に良いのではないかと思ったのでした。
まぁ、そうは言っても、俺も「仕事人」とか見てたから、なんちゅうの、悪党吊せ!な気分がわからなくはないんだけど、あれが好きだったのは、主水さんの、「金をもらって人を殺してるんだ」っていうドライさにあったわけでして、それが後のシリーズになると(たぶん、組紐屋の竜と花屋の政が出始めたあたりなんですが)仕事人=正義の味方って構図、なんかちがくね?と思って、見なくなったんですな。確かに仕事人たちに殺される連中も、志乃が殺した連中も褒められた人間ではない。でも、彼らを殺した仕事人も志乃も、人を殺すという行為で、彼らと同じところまで堕ちたのではないかと、人を殺すってそういうことなんじゃないかと思います。
そんなこと言いつつ、俺も血なまぐさい話ばっかり書いとりますけど…
とか言いつつ、これから原作を読もうと思います。周五郎さんの文章が好きでしてねぇ。こんなに映像的な小説読んだら、藤沢周平なんて軽くて読めませんがな。
たんぽこ通信 映画五十音リスト
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