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されど平穏な日々

日々のつぶやきと読んだ本と見た映像について気まぐれに語るブログ。Web拍手のメッセージへのレスもここ。「Gガンダム」と「ジャイアントロボ」への熱い語りはオタク度Maxにつき、取り扱い注意! 諸事情により、コメントは管理人が操作しないと反映されません。時々、サイトの更新情報など。

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佐喜眞美術館再び

前回は一部しか見られなかった「沖縄戦の図」が全作見られるってんで、いろいろ日程考えたら今日明日しか行けなかったんで、それっと行ってきました。

ううむ、やはり、全作あったんか…

「沖縄戦の図」で描かれた8連作と、読谷3部作、単独で描かれた沖縄戦の図、きゃん岬、ガマの計14枚です。

前回も乗ったバスで上原で下車しまして、前回と同様、PAOでパンを買い、ふく薬局で阿蘇牛乳を買い、美術館の前で立ち食いして行きました(ちょうど昼時だったため)。
そう言えば、PAOはサンシャインマーケットには出店してませんでしたし、別の宜野湾市のパン屋でした。まぁ、パン屋も多いからなぁ…

あと前回は気がつかなかったんですが、奥に「TEA ROOM(喫茶室だったかも)」と看板のかかった空き部屋がありまして、昔は喫茶室ぐらいはあったようですが、採算が合わなかったらしく、辞めちゃってました。うーん、へたに手を広げてるのが良くないんだと思いますが… 美術館の売りはやはり「沖縄戦の図」なんで、ずっと「沖縄戦の図」全作をかけておけばいいんじゃないかと思いますが…
わしが行った後で観光バスも行ったんで、団体客があるなら、それなりに需要はあると思います。沖縄戦というと、どうしても南部が中心になりがちですが、宜野湾市で、しかも普天間基地に隣接という絶交の立地条件は、「沖縄戦の図」を飾るに相応しいと思いますが…

というわけで「沖縄戦の図」14枚です。

全部見て思ったんですが、わしは、わりと人物を描かれてる俊さんの、一人として同じ人物がいない描写がわりと好きなようです。「原爆の図」でも「水俣」や「南京大虐殺」「アウシュヴィッツ」でも。その生気のない眼差しが見つめる人類史上でも稀に見る凄惨な事実を、犠牲者たちの眼差しを通して見つめたいと思うからかもしれません。
ただ「沖縄戦の図」に限って言いますと、「シムクガマ」の静謐さがいちばん好きでした。人もいない、生き物もいない、音もしない、ただ明るいだけのガマの絵を、ぼんやりと眺めていたいと思いました。時々、聞いたこともない雫の垂れる音を聞きながら、ずーっと見ていたいと思ったくらい、「シムクガマ」の絵がいいなぁと思いました。

ただ心配だったのは、前回は気づきませんでしたが、墨に油絵の具でも乗せたためでしょうか? 特に色がついたところの絵の具がひびが入って割れていて、剥がれているところが多々あり、もったいないなぁと思いました。沖縄の高温多湿では、油絵の具はもっと厳重な管理がなされているべきなのかもしれません。個人が経営する美術館では難しいのでしょうか? それとも和紙に置いたんで、位里さんも俊さんも、いずれ割れて剥がれることは知っていたのでしょうか? 補修してもらえんかなぁと思います。炎だったり、ハイビスカスの鮮やかな花だったり、血だったりする赤や、エメラルド色と言われた海の色を表現するにはやっぱり青のように色があった方がいいので、このまま剥がれるままにしておくわけにはいかないんじゃないかと思いました。

なんで、また全作かかったら見に行こうと思います。わしの好きな「シムクガマ」は常設展示なんですが、東松山の丸木美術館に行く機会ももうないだろうし、せめて沖縄にいるうちは「沖縄戦の図」をもっと見たいと思うからです。

絵を見た後で、丸木夫妻を撮った写真集を眺めていたら、久米島の虐殺を描いた絵に朝鮮の人が殺されたシーンがあったことがわかりました。首に縄をかけられた父親らしい人を兵隊が引きずっていき、そこに息子が取りすがっている、わりと大きく描かれた人物でした。
沖縄の人が方言のためにスパイと疑われ、日本兵に殺されたのは有名ですが、ここでも朝鮮の人たちがさらなる差別に苦しめられていたと知って、暗澹たる気持ちにさせられました。

また行こうと思います。

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佐喜眞美術館

行き方:宜野湾市役所を通る路線バスならば何でも可。上原で下車。下りたら進行方向に歩き、道沿いに行くと案内が見えます。

というわけで3連休の初っぱなは佐喜眞美術館に行ってきました。宜野湾市にあり、普天間基地の一部を返還させて建てた美術館だそうです(館内に岩波ブックレットの解説あり)。館長は軍用地主で、幸運にも普天間基地の外縁部に土地を持っており、その広さが美術館に必要だと思われていた500〜600坪だったので本来ならば日本政府とか防衛局を通じて返還を願い出るところでしたが、当の日本政府と防衛局に妨害にあったため、米軍と直接交渉し、返還に至ったんだそうです。いやいや、相変わらず日本のやるこたぁ寝汚ねぇ

そもそも行こうと思った発端は、かの原爆の図やアウシュヴィッツ、南京大虐殺、水俣の図などを描かれた丸木位里・俊夫妻の沖縄戦の図が飾られているというんですから行かねばなりますまい(義務)。
しかも館内のブックレットで読んだんですが、沖縄の公共の美術館・博物館はこの絵の展示を断ったそうで、沖縄戦というのは一大観光資産であるのは間違いないけど、いつまでもその暗いイメージを引きずられても…とでも言いたげな沖縄の公務員の思惑が垣間見えて、何ちゅうかな気持ちになりました。まぁ、それを言ったら、当の広島の平和記念館にだって丸木夫妻の絵は飾ってたのは見なかったような… レプリカぐらいあったかもしれませんが、現物は埼玉県東松山市で見られます(行ったことあり)。

那覇、それも58号線沿いだとバス便は豊富にあるので行くのは楽です。

翌日からは発生が予想される台風16号の影響でか雨天が予報されてますが、今日はいい天気。
途中で、どっかで見たことがあるんだが…な店名、PAOというパン工房に寄って気になったカスタードクリーム入りのデニッシュというか、まるっとケーキを買ったんですが、食べる場所がどこにもなかったんで大失敗でした。まぁ、帰りのバスを待っているあいだに食っちゃったけど。
たぶん、月一のサンライズマーケットに出店されてるのではないかと思いますが… 10月にまた行くので確かめてみます。
個人的にはおされな喫茶店でもあれば良かったんですが、ステーキ屋があっただけだったので… 米軍基地の近くだからアメリカ牛なんだろうなぁ…

普天間基地に食い込んだところにある美術館という位置は特殊ながら、企画展示を並行してやっていたためか、常設展示(サイトで宣伝されてたやつ)が見られなくて、ちょっと物足りなかったです。ケーテ=コルヴィッツの絵は見たかったんじゃが…
個人的には障碍者の絵はあんまり興味を持たないので(そもそも障碍者の絵だからといって惹かれないし惹かれてから作者が健常者か障碍者なんかは知りますが、わし的にはくっそどうでもいい情報なもんで)正直、あんまりおもしろくありませんでした。あと、常設展示のはずの草間彌生を一緒に飾るのはいいのだろうか… あの点々、好きじゃないけど…
あと、原始的という観点からかパプア・ニューギニアの精霊の像とか、仮面とかも飾られていましたが、パプア・ニューギニアにはそもそも言語が700以上あって(現在は500ぐらいまで減ってるらしいんですが)、それだけ多くの部族がいたという解説を読むと、10個にも満たない展示品でパプア・ニューギニアとかふざけとんのか、と思いました。どうせなら全部パプア・ニューギニアで埋め尽くすぐらいの数を見せたらいいんじゃないでしょうかね(鼻ほじ

丸木夫妻の沖縄戦の図は、本当は11枚だったか8枚ぐらいの連作だそうで、そのうちのいちばん最初に描かれた大作と、読谷3部作と名づけられた、先日、わしが行ったチビチリガマ、シムクガマをテーマにした2作、ガマと亀甲墓を描いた2作、計5作が飾られていました。
ご夫婦の合作の仕方を知ってると、人物像が概ね俊さんで、大胆に墨を流してるのが位里さんというのはわかるんですけど、沖縄戦の図は珍しくカラー(血や炎を象徴するような赤と、海を象徴する青)が入っていたんで、じっくりと眺めてきました。

個人的には人物がじっくり描かれているのに、兵隊が一人もいないように見えるガマの絵が、一人ひとりの服装まで細かく描き込んであったのが良かったです。
あと、シムクガマの絵は、1000人以上の人が助かったという逸話を受けて、人物も生き物も何1つ描かれておらず、白っぽくて明るい、わしが見てきた入り口よりももうちょっと奥まったところを描いたような洞窟が、珍しく位里さんお一人の手のように思えました。

わしのなかでは丸木位里・俊夫妻>(越えられない壁)>それ以外の画家という感じの知名度だったり、感銘の受け方だったりするので、いっそ、月替わりで沖縄戦の図を全作公開してくれたら、もっと通うんだがなぁと思わなくもありません。

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チビチリガマ・シムクガマ・さとうきび畑の歌碑

行き方:28、62、228番線に乗車(それぞれ出発地が違うので注意)、波平バス停で下車。
チビチリガマは来た方向に戻り、交差点も渡って丸大というスーパーマーケットを通り過ぎた次の交差点を右折、その次の十字路に「さとうきび畑の歌碑」という看板が立っているので直進、そのうちに「チビチリガマ参拝者優先駐車場」が見つかったら(歩道は進行方向の右手のみ)右折して、階段を下りたところにあります。内部の見学は不可。
歌碑はチビチリガマからさらに進んで看板の案内どおりに右折、左折すると見つかります。
シムクガマは下車したバス停で道路を渡り、住宅街のなかを歩いていくと(要地図)シムクガマの案内が見つかればしめたもの。草地を掻き分け、森の中にあります。

8月15日の敗戦記念日、1日だけの夏休みをもらったので、せっかくの敗戦記念日、うちでごろごろしてるのももったいないし、どっか行こうというわけで思いついたのがチビチリガマでした。調べてみたら泊高橋からバスに乗れ、およそ1時間くらいだそうです。先日の辺野古行きに比べたら半分以下の時間で行けるので、久しぶりに糸満方面も考えましたが、やっぱり時間かかるんで読谷村行きに決定。で、調べていたら、チビチリガマは何しろ集団自決をさせられたところですんで内部には入れませんが、すぐ近くのシムクガマでは、アメリカ帰りの二人のおじさんがいたおかげで1000人以上の避難民が助かったという話がクローズアップしてきたので、せっかくだから一緒に見学させてもらいに行くことにしました。で、現地で見かけた、さとうきび畑の歌碑も併せて見学です。

バスを降りて適当に歩きましたが、当然、チビチリガマは見つかりません。仕方ないので携帯のテザリングを起動し、あいぽんちゃんをネットに繋ぎますが、Googleマップがアプリ入れないと使えない不便な環境になっていたので、ダメ元であいぽんのデフォルトで入っているマップを起動したところ、ネットに繋がなくてもちゃんと現在地を把握してくれたので以降、これに頼ることに。意外と使えるでねぇの。
で、マップによるとチビチリガマは来た方向に戻らないといけないことが判明したので日射しが出たり隠れたりという微妙な陽気でしたが、とぼとぼ(気分的に)と丸大というスーパーまで戻りまして、さらにそこから歩いて10分くらいでしょうか(時計見てない)。「チビチリガマ参拝者優先駐車場」を見つけたので右折すると、そこがチビチリガマへの入り口でした。
もっとも事前の調査で内部の見学は遺族の意向により不可とのことでしたので、おとなしく平和の碑を撮影して帰ります。

右手がガマの入り口でたくさんの千羽鶴が。左手の高台が碑があるところです。


戻ってから、ついでにさとうきび畑の歌碑も見学させてもらおうと思いましたが、見つけた看板に「300m」の文字が…。けっこう暑いのでどうしようかと思いましたけど、まだそこまで疲れてなかったので行きました。そこから300mだったのか、さらに右折して、左折したのでもっと歩かされたような気もしましたが、たどり着きました。

歌碑。


そういや、歌は聴いたけど、全体撮り忘れました。暑くてそれどころじゃなくなってた… あと晴れてるとあいぽんちゃんの画面が見られないのでうまく撮れたか不明。
歌はけっこう長かったですが、多少、音割れしてますけど全曲聴けます。

ただ、聴いていて思ったんですけど、作詞作曲の寺島尚彦、1930年生まれの軍国少年だろうに、
むかし海の向こうから
いくさがやってきた
という部分はあかんだろうと思いました。
沖縄の人びとにしてみたら、「やってきた」としか言いようがないのかもしれませんが、作詞者は本土の人間じゃないですか。自分たちの起こした戦争で沖縄を巻き込んでおいて「やってきた」はないだろうと思うのです。まぁ、軍国少年に戦争責任があるのかと言われるかもしれませんけど、やっぱり免罪されちゃいかんと思います。

あと、歌が思っていたよりずっと長くて、フルで唄うと10分以上の大曲だそうで… たぶんフルバージョンかかってたので、道理で腰が痛くなったわけだ… (´・ω・`)

歌を聴いたら丸大まで戻り(お盆の最終日のため、どこの店もしまってるから)、水分補給と腹ごなしに買い物しましたが、イートインコーナーはなかったので外で立ち食いです。あんまり食欲なかったんでこんぺんとソルティライチ。
で、再びテザリングを立ち上げ、シムクガマの位置を検索、今度はバス停の方だというんで、とぼとぼ(比喩)登っていきます。
で、適当に裏に入り、住宅街のなかを歩き、たまにマップで見て方向を確認、すると前方に親子連れの姿があり、交差点を横切っていったので、わしもそこまでたどり着くと、シムクガマの案内があったので、虫避けにミント塗って(スプレーが出てくれなかったため)草むらに踏み込みます。この時、暑さのために短パンだったことを後悔するぐらい、草が生い茂ってましたが、幸い、切られるような葉ではありませんでした。ただ、蚊に刺されたので虫避けと虫刺されの薬は必須です。
草むらを越えたら森に入り、気温が下がります。だいたい、沖縄は日射しこそ殺人的ですが、日陰に入ると気温がぐっと下がるので何とか過ごせるのです。なんで最高気温はたいがい、本州より低いです。そういや、新潟の最低気温が30度とかニュースになってましたけど、何ですかあれ… (´・ω・`) 生きていけんわ。
完全な山道を下っていくと、やがてシムクガマに到着。いつものようにサンダルで行きましたけど、運動靴推奨な気がします。

入り口。


奥。


なにしろ住民の1/4が殺されたという沖縄戦で死者が出なかった稀有なガマです。見学は自由ですが、洞窟探検装備じゃないと無理っぽいです。
あと、そういう歴史の違いかもしれませんが、うっそうと生い茂った木の陰にあったチビチリガマに比べて、シムクガマは入り口に湧き水があり、開放的な雰囲気でした。

おまけ。

ドラゴンフルーツ。


見た目に反して味は地味。

ススキ。


立秋も過ぎたせいか、トンボがわんさか飛んでました。

月桃の花と実。


意外と独特の匂いはせず。マーガレットの臭さは何なんだ。

この後、残波岬まで足を伸ばしてみようかと思ってましたが、暑さでへばったので(翌日、仕事だし)また28番線に乗って帰りました(泊高橋行くのはこれだけ)。

またどこか行こうと思います。

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第32軍司令部壕跡ほかを見に行ってきた

行き方:1、7、8、14、17、346番線で当蔵(とうのくら)下車。当蔵交差点まで戻って県立芸術大学の方に入る

大綱挽き祭りの翌日、いつもなら家でぐたっと過ごすところですが、せっかくの三連休なので、ちょっと足を伸ばしました。といっても那覇市内に留まってますが。

第32軍司令部壕跡です。首里城の地下に築いた、米軍の艦砲射撃でも崩れなかった堅固な要塞でしたが、安里高地(シュガーローフ)などで敗退を重ね、戦力を失った日本軍にはそれ以上、持ち堪える力はなく、そこで降参すればいいものを、なにしろ「生きて虜囚の辱めを受けず」なお国なもんですから、糸満方面まで撤退し、そちらに避難していた一般住民を巻き込んで凄惨な負け戦を繰り広げます。

ただ、先日、見学した沖縄陸軍病院南風原壕群20号と違って、撤退する時に日本軍が爆破していったので第32軍司令部壕の全貌は完全にはわかっていないそうです。また、わしが見学した、唯一残った入り口も本来の入り口ではなかったようです。近くの小学校にも入り口があるようですが、小学校が休みのためにできず、開いている時でも見学できるかどうか不明です。

その前に、まず見つけた沖縄師範学校附属小学校と師範学校の石碑。



第32軍司令部壕が上のような事情で尻切れトンボだったんで、一緒に見学した一中健児の塔とも縁の深い沖縄師範学校の跡地です。現在は県立芸術大学になってます。向かいにあった県立博物館はおもろまちに移動してますが、いくつかの地図だとまだ残ってます。
そういや先日、読んだ「沖縄健児隊の最後」で鉄血勤皇隊に組み込まれた師範学校男子部の生徒たちが学校の傍に防空壕を掘ったとありましたが、女子はどこ行ったんだと思ったけど、ひめゆりなどで病院壕に行かされたんでしたね…。

師範鉄血勤皇隊の説明パネル。



第32軍司令部壕の説明パネル。



航空写真があり、見つかっている入り口などを表示しているものの、東西南北も書いてないもんですからわかりづらいことこの上なく、わしは見つけられませんでした。積極的に案内もしてないし、後の写真でわかるように中にはいることもできないし、ほかに説明のパネルもないんで力の入れ具合の低さがわかりやすいですネ。

パネルの辺りから見るとこう。



上の写真で見えてた鉄格子は近づくとこんな感じ。



完全に崩落して、これ以上、入れません。発掘調査が待たれます。

上の鉄格子の左に見える壕の内部(ちょっとだけ)。



結局、これ以上の情報は周辺をうろつきましたがわからず、当日は天気も良かったので、わしはさっさと一中健児の塔へ向かうことにしました。

一中健児の塔は、玉陵(たまうどぅん)の近くにあります。首里城を背に玉陵に向かい、その先の横道を下っていくと、次に太い道路に出る前に一中健児の塔の案内が立ってます。
同じ敷地内には近所の首里高校(玉陵の向かい)の弓道部の練習場と、養秀会館があり、塔はその奥、坂の上です。

その手前にある一中健児の塔の説明パネル。



一中健児の塔。



左隣に亡くなった生徒さんたちの氏名が学年ごとに綴られた石碑がありますが、なにしろ成人前の若者ばかりですので痛ましいの一言に尽きます。鉄血勤皇隊が米軍の捕虜になった時に撮られた写真を見ても初々しい少年ばかりです。そんな若者たちを戦争に駆り出した上、敗戦が色濃くなった時に無責任に戦場に放り出した日本軍の罪状は永遠に消えることはありません。

塔の近くにあった説明パネル。



あの日の空も、こんな風に青々と輝いていたのでしょうか?

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沖縄陸軍病院南風原壕群20号ほか

行きたいなぁと思ってた戦跡巡りに行ってきました。今度はシュガーローフ(日本名:安里高地)ほどお手軽じゃなくて、要予約の施設です。

行き方:沖縄バス 40番か109番 上泉(那覇バスターミナルの先。オハコルテの正面なので県庁前から来てもそんなに変わらないかも。ただバスターミナルが2018年10月1日に新装開店なので変わる可能性はあります。要確認)から福祉センター入り口下車(右折したT字路まで戻り、右に行く)乗車時間はおよそ30分、料金は350円。

陸軍病院南風原壕群は要予約。電話は南風原文化センターへ 098-889-7399
休みは文化センターと同じで水曜日と年末年始。
値段は町外だとどちらも300円です。

ひめゆり学徒隊の方の証言などでけっこう有名だと思う、陸軍病院の南風原壕群です。もともとは那覇市内にあったそうですが、1010空襲(1944年10月10日の空襲で那覇市内の建物90%以上を損壊させた)で医薬品30%ほどとともに失われたため、沖縄県では唯一、海に面していない南風原町に作りました。それも南風原国民学校を使ってたのを、砲撃を受けて使えなくなったため、完全に壕群に病院の機能を移設することになったそうです。

壕群と言われるとおり、当時は30ほどの壕がありましたが、米軍の砲撃や落盤、台風などにより埋没してしまい、調査され、公開されているのは20号壕だけです。ほかに24号壕も入り口の位置のみ公開されてまして、こちらは台風で埋没してしまったそうです。どこにどの壕があったのか、大まかな場所はわかってるようですが、全て未調査だそうです(と有料パンフに書いてある)。
しかも、残ってる20号は、本来は内科を専門とする病壕のはずでしたが、沖縄戦が進行し、外科処置の必要な患者が増える一方だったため、最終的には20号周辺の壕群は第2外科、伝染病が専門だったという壕も第3外科とされたそうです。

20号壕は70mあり、南風原文化センター側から、いわゆる飯あげの道(艦砲射撃などの降り注ぐなか、女学生が飯の入った樽を2人1組で担いで往復した山道)を登って下りると20号壕の入り口があります。そこからは南風原町の野球場や陸上競技場などが見えます。

要予約なのは、全国で初登録された戦跡の文化財なので保護のためもあると思います。すでに落ちてきた箇所を補強してるところがありますが、そうでなくても高温多湿の沖縄、少しでも長く開放しておくには開けっ放しというわけにはいきませんもんね。

内部は真っ暗で施錠されており、ガイドさんに案内されて見学します。ヘルメットと懐中電灯が必須ですが、入り口で無料で貸し出してもらえます。たぶん貴重品の入っていない荷物なら(それほど多くなければ)預かってもらえると思いますが、あんまり多いようなら文化センターで預けていった方が楽でしょう。だいたい飯あげの道が悪路なんで(一応迂回する階段はありますが)荷物を持って登り下りするのは大変ですし。あと雨の日は足下が滑るので止められるそうです。

文化センターからは飯あげの道経由で320mあるそうですが、たぶん団体さん限定で要予約だと思いますけど、飯あげ体験もさせてもらえるようです(要問い合わせ)。サイトに書いてありましたが、わしはそんなことをする体力的な余裕はないので、登って下りるだけで十分でした。それだけで、この悪路を何十人だか何百人だかの飯を担いで登り下りすることの大変さはよくわかりました。単に自分だけで登って下りるだけでも大変なのに、荷物なんか抱えてたら洒落にならない。ましてや艦砲射撃などにさらされては。
暑さが戻って(時間的に昼過ぎだったためもあり)きたのか、かなり暑かったですが、壕のなかはむっちゃ涼しかったです。沖縄は全島的に石灰岩の地質なんで、半分鍾乳洞なせいもあるかもしれませんが、単に日光を遮ると涼しい島の気候のせいかもしれません(日向と日陰で体感温度が5度くらい違うんじゃないかと思える)。

2018/9/30 飯あげの道を撮った写真があったので追加。こうするとよくわかりませんけど急勾配の坂道です。雨の日はもちろん普段だって重い荷物を担いで、ましてや艦砲射撃などを避けて通るのがいかに困難かは容易に想像がつきます。


あと、飯あげの道、要するに黄金森(おもろまちにも同名の公園があり、こちらは「くがにむい」と読むのだが、南風原町のは「こがねもり」と言ってた)を通るのに森のなかなんで、虫避け、虫刺されの薬は必須です(忘れていたため、慌てて借りましたが)。福祉センター入り口バス停のちょいと先(文化センターの反対方面)にドラッグストアがあるので、そこで買っていってもいいかもしれません。

壕の内部は70mで、残った物も最小限のため、意外とあっという間です。ガイドさんの話次第というところです。入り口の前、入ってすぐの埋められてた薬品類、焼け残った杭木、中央の十字路(手術室。19号と21号の壕への連絡路でもあったけど、両方とも落盤してるので見学不可。21号の女学生さんたちが休む場所だったという通路だけかろうじて見学可)、患者の病室(ただし寝台などはなし)、出口で説明してもらいました。
壕のなかは基本、片づいているのですが、それでも狭いです。落盤してきたのを補強したためもあるんでしょうけど、わしの身長(165cm)で頭がつっかえるところがあったのでもっと背の高い人は大変かも。一応、高さ180cm、幅180cmで掘ったそうですが、なにしろ突貫工事だし、人力なんで、サイズのばらつきはしょうがないでしょう。ただ、当時は、特に病室は90cmが寝台で塞がっていたんで通路も90cmしかなかったので、そうとう狭かったはずです(わしが大昔にプレイしていたRPGだと、アメリカ産のためか10フィート×10フィート、つまり3m×3mというダンジョンの幅が一般的だったので、その半分強ということになります。つまり、2人並んで武器を振り回せません。しないけど)。

ちなみに20号壕から発掘された遺骨は平和祈念公園の方に一緒に葬られたとどっかに書いてありました。

さらに24号の入り口も見学しますが、周囲に「ハブ注意」と書いてある上、台風で崩れたため、数m先から眺めるしかできません。おかげで看板も読めません(たぶん、近眼のためだけではない)。

そこで壕の方は何だかんだでも1時間くらいで終わり、続いて文化センターも一緒に見学します。せっかく来たんですし。
しかし、こちら、たかが文化センターと侮るなかれ、沖縄戦に始まり、アメリカによる統治時代、復帰後、さらに移民や人びとの暮らしなども扱っていまして、その資料の豊富さはいっぱしの博物館並みです。
しかも、何もなくて雰囲気がつかみづらかった20号壕が等身大の人形とともにリアルに再現され、これを見てびびったわしは、一瞬、金を払ったはいいけど、そのまま帰ろうかと思ったほどでした。まぁ、それだと何をしに来たのかわからないので意を決して入りましたが(大げさ)、飯あげをする女学生はともかく、患者さんたちの図とか、ちょっと怖かったです(びびり)。
あと、いくつかの寝台(下)が空いてまして、こちら、上がることができますが、何ですか、当時の臭い(膿とか糞尿とか、汗とか人いきれとか…想像しただけで息苦しい (´・ω・`))が体験できるそうですけど、びびりなんで当然、入りませんでした。いや、だって膿の臭いとか知ってますし、そこに+糞尿+汗+体臭+エトセトラときたら、ちょっと悶絶レベルなのはわかってたんでしませんでした。何人かで行ったら、思い切って入ってみるのもいいかもしれません(と無責任に勧める)。
最後は手術台に向かう軍医と看護婦の人形でしたが、さすがに患者人形はなかったので、これはまぁ、何とかなりました。いや〜、ほんとに音とかなくて良かった。あったら、もはやホラーです。

おっかなびっくり(大げさ)の壕体験が終わったら、沖縄戦でいかに南風原町の方々が犠牲になったかとか、軍の施設がどれだけ、どこにあったかとか、そんな資料に始まりまして、アメリカの占領時代、本土復帰、移民ときて、部屋が変わって人びとの暮らしに移ります。途中で防疫給水とかあって、すわ731かよ!と思いましたが、全然別の部隊でしたけど、無関係ではないんでしょう、実際。

ビデオで生存者の方々の証言とかを15分くらい見て、これがなかなか良かったです。やっぱり臨場感が違いますもんね。病院壕が南部に撤退することになって青酸カリを飲まされそうになったけど、吐き出して逃亡したという患者さんの証言は、よく逃げたもんだなぁと思いましたが、人間、土壇場になると火事場の馬鹿力ってやつかもしれません。だって青酸カリの時点で南部に連れていけない重傷患者なわけなんですよ。それが青酸カリを吐いて逃げたっていうんだから、侮れないよな、生きる力はと感心させられました。逆にそれ以外の人たちは殺されちゃったわけですからね。

最後に南風原町の遺跡の紹介なんかも見学して、見終わった頃には優に3時間が経過しておりました。わし、こういうのは長いからね…
おかげで足も吊りましたが、見応えのある施設だったので、是非、セットでの見学をお薦めします。

また、そのうちにどこかに行こうと思います。

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