監督・脚本:マルガレーテ=フォン・トロッタ
出演:ハンナ=アーレント(バーバラ=スコヴァ)、ハインリヒ(アクセル=ミルベルク)、アドルフ=アイヒマン、メアリー=マッカーシー(ジャネット=マクティア)、ロッテ(ユリア=イェンチ)、ハンス=ヨナス(ウルリッヒ=ノエテン)、クルト=ブルーメンフェルト(ミヒャエル=デーゲン)、ほか
見たところ:川崎アルテリオ・シネマ
2012年、ドイツ・ルクセンブルク・フランス
「イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」を書かれた哲学者ハンナ=アーレントの、主にアイヒマン裁判取材からの数年を描いた映画です。二回目の上映なんですが、前回は満員のため、寸前で門前払いを喰らったため、再上映を知って再挑戦、今度はぎりぎりで入れました。ていうか、消防法とかもうるさくなってるんでしょうが、そうでなくても映画の人気が落ちている時代に満員だからと入場を断るとは、かつて満員だからと通路に座って見た(確か「
エンジェル・スノー」リンク先はレビュー記事。と思って確認したら「
ノー・マンズ・ランド」でした。リンク先はやっぱりレビュー記事)記憶のあるわしには、ずいぶん余裕があるなぁと変なところで感心しましたけんど。
1960年、ナチスの最後の大物と言われたSSのアドルフ=アイヒマンが、潜伏先のアルゼンチンでイスラエルの秘密警察に捕まり、じきに裁判が開かれるというニュースが世界中を駆け巡った。ドイツからの亡命者で、今は哲学者として高名なハンナ=アーレントは、ユダヤ人としてアイヒマンの裁判を傍聴したいと思い、雑誌「ザ・ニューヨーカー」に申し出、受け入れられ、エルサレムに向かう。しかし、やがて始まったアイヒマン裁判を見続けたアーレントは、アドルフ=アイヒマンという人物が自分の考えていたような殺戮者ではなかったことに気づき、その人物の凡庸さ、官僚的な姿勢こそが無類の大虐殺をもたらしたことを知っていくのだった…。
今でこそ、ハンナ=アーレントの言う「凡庸な悪」は一般的に受け入れられるようになりまして、気質が似ていると言われるドイツ人と日本人です。しかも日本では極東国際軍事裁判により裁かれたのはほとんど軍人と政治家で、ヒロヒトは言うに及ばず、ファシズム国家を支えた官僚やマスコミ、憲兵なんかはそっくり残りました。で敗戦で、そういう組織が反省し、心を入れ替えたかと言われると、昨今の報道とか見てると、全然そうは思えないわけですよ。むしろ、全然変わってないと。体質同じだろうと。そう思った時に、わしはこの「凡庸な悪」という言葉にあい、それまで感じていた官僚気質というものが、腑に落ちて、まさにすとんとこの言葉がはまって、そうでなくてもフクイチの事故をできるだけ矮小化しようとしているこの国の政府と官僚というものに対する不信感というのは日々、ふくらむ一方なわけなのでした。
そんなことを考えながら見ていたので、ラスト、それまで批判されたアーレントが学生への講義という形で初めて行った反論、8分にもわたるスピーチでは、今の日本にも通じる言葉がたくさん詰まっているなぁと思って聞いてました。
初っぱなのアイヒマンの誘拐は台詞1つなく、わずか数分のシーンですが、緊張感のあるつかみです。でも、その後では親友のメアリーの離婚騒動と軽く入って、アイヒマンの裁判が開かれることがわかってからは緩急のある展開で、ドイツ映画は「
トンネル(リンク先はやっぱりレビュー記事)」と「
白バラの祈り ゾフィー・ショル、最後の日々(リンク先はやっぱり)」ぐらいしか見ていないんですが、派手さはないけれど、堅実でいい映画でした。
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