行き方:1、7、8、14、17、346番線で当蔵(とうのくら)下車。当蔵交差点まで戻って県立芸術大学の方に入る
大綱挽き祭りの翌日、いつもなら家でぐたっと過ごすところですが、せっかくの三連休なので、ちょっと足を伸ばしました。といっても那覇市内に留まってますが。
第32軍司令部壕跡です。首里城の地下に築いた、米軍の艦砲射撃でも崩れなかった堅固な要塞でしたが、安里高地(シュガーローフ)などで敗退を重ね、戦力を失った日本軍にはそれ以上、持ち堪える力はなく、そこで降参すればいいものを、なにしろ「生きて虜囚の辱めを受けず」なお国なもんですから、糸満方面まで撤退し、そちらに避難していた一般住民を巻き込んで凄惨な負け戦を繰り広げます。
ただ、先日、
見学した沖縄陸軍病院南風原壕群20号と違って、撤退する時に日本軍が爆破していったので第32軍司令部壕の全貌は完全にはわかっていないそうです。また、わしが見学した、唯一残った入り口も本来の入り口ではなかったようです。近くの小学校にも入り口があるようですが、小学校が休みのためにできず、開いている時でも見学できるかどうか不明です。
その前に、まず見つけた沖縄師範学校附属小学校と師範学校の石碑。
第32軍司令部壕が上のような事情で尻切れトンボだったんで、一緒に見学した一中健児の塔とも縁の深い沖縄師範学校の跡地です。現在は県立芸術大学になってます。向かいにあった県立博物館はおもろまちに移動してますが、いくつかの地図だとまだ残ってます。
そういや先日、読んだ「
沖縄健児隊の最後」で鉄血勤皇隊に組み込まれた師範学校男子部の生徒たちが学校の傍に防空壕を掘ったとありましたが、女子はどこ行ったんだと思ったけど、ひめゆりなどで病院壕に行かされたんでしたね…。
師範鉄血勤皇隊の説明パネル。
第32軍司令部壕の説明パネル。
航空写真があり、見つかっている入り口などを表示しているものの、東西南北も書いてないもんですからわかりづらいことこの上なく、わしは見つけられませんでした。積極的に案内もしてないし、後の写真でわかるように中にはいることもできないし、ほかに説明のパネルもないんで力の入れ具合の低さがわかりやすいですネ。
パネルの辺りから見るとこう。
上の写真で見えてた鉄格子は近づくとこんな感じ。
完全に崩落して、これ以上、入れません。発掘調査が待たれます。
上の鉄格子の左に見える壕の内部(ちょっとだけ)。
結局、これ以上の情報は周辺をうろつきましたがわからず、当日は天気も良かったので、わしはさっさと一中健児の塔へ向かうことにしました。
一中健児の塔は、玉陵(たまうどぅん)の近くにあります。首里城を背に玉陵に向かい、その先の横道を下っていくと、次に太い道路に出る前に一中健児の塔の案内が立ってます。
同じ敷地内には近所の首里高校(玉陵の向かい)の弓道部の練習場と、養秀会館があり、塔はその奥、坂の上です。
その手前にある一中健児の塔の説明パネル。
一中健児の塔。
左隣に亡くなった生徒さんたちの氏名が学年ごとに綴られた石碑がありますが、なにしろ成人前の若者ばかりですので痛ましいの一言に尽きます。鉄血勤皇隊が米軍の捕虜になった時に撮られた写真を見ても初々しい少年ばかりです。そんな若者たちを戦争に駆り出した上、敗戦が色濃くなった時に無責任に戦場に放り出した日本軍の罪状は永遠に消えることはありません。
塔の近くにあった説明パネル。
あの日の空も、こんな風に青々と輝いていたのでしょうか?
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