監督:ハワード=ホークス
出演:ダイソン(ジョン=ウェイン)、マット(モンゴメリー=クリフト)、ほか
音楽:ディミトリ=ティオムキン
1948年と古めだと思ったのですが、マットがダイソンの子ども同然の設定で、意外とジョン=ウェイン、お年の設定のようです。
しかも「
硫黄島の砂」とか「11人のカウボーイ」とか「捜索者」を彷彿とさせるような筋立てと頑固親父っぷりです。
赤い河を越えてテキサスに牧場を作ったダイソンは、15年後、たくましく成長した息子同然のマットや牧童とともに1万頭の牛をミズリーまで売りに行こうと考える。しかし、その道中は困難なものであった…。
赤い河というのは、テキサス州の州境に流れている河のようです。ダイソンととっつぁん(酔いどれではない。残念)が牛を連れて牧場を作ろうと越えた河であり、ネイティブ・アメリカンの襲撃を受けた後でマットと出遭った河であり、これから越えていこうとする、ミズリーまでの旅路の難所でもあります。また、ダイソンの牛に押された焼き印も赤い河をモチーフにしており、ダイソン自身の牧場の入り口にも同じ文様があり、ま、この映画の根底を流れるテーマと言っても過言ではありません。正式には何という河なのかわかりませんが。
で、この映画はその赤い河を舞台にした、ジョン=ウェインお得意のファミリー劇場、あるいは壮大な親子喧嘩、ある日、息子は父親を越えていく、的な話です。「
硫黄島の砂」もそういう、家族物というテーマが根底にあるとWikipediaだかで読んだので、この映画はその同類と言っていいでしょう。
また、その根底に流れるのは、ダイソンが若かりし頃に失ったただ一人の女性への思慕であり、それは姿を変えて、マットの思い人となって現れたようでもあります。ダイソンの心の奥底には、あの時、彼女の言うように連れていけば、彼女を殺させはしなかったのに!という後悔が絶え間なく流れていて、それがラスト付近で現れているように思われました。
ただ、ダイソンが失った女性も、マットと思い人の出会いも、ネイティブ・アメリカンの襲撃があり、その理由は、アメリカ人の開拓にあったということを考えますと、この映画での扱いはむしろひどい方の部類に入るのではないかと思われるぐらい、描き方は杜撰な気がしました。ネイティブ・アメリカンが開拓者を襲い、根こそぎ燃やそうとするのは、まさに土地を取られたからであり、その理由も思い至らないのは、やはり1948年と旧い映画では難しいのかと思ったり。
まぁ、どちらかと言えば、圧倒的に白人側にいるわしがそんなことを思うのは、ある意味、そういう立場に陥ることはないだろうという安心から来る優越感が思わせるせいではないかと思ったりもいたしますんで、あんまり西部劇とかで言及しても意味はないと思うのですが、でもやっぱり、西部劇見るたびに気になって、黙って通り過ぎるわけにもいかないかなぁと思うわけでした。
音楽のディミトリ=ティオムキンさんは「アラモ」の音楽を担当された方。先年、「アラモ」がリメイクされましたが、ジョン=ウェイン主演でも興行的に失敗したのに、無名の若造主演でそれほどヒットするわけねぇとか思っちゃったり。や、これは関係ない話でしたな。
たんぽこ通信 映画五十音リスト
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