柳田邦男著。文藝春秋刊。
25歳で自殺した著者の次男・洋二郎氏の死に至るまでと、自殺してから救急病院で死を迎えるまでの11日を綴ったエッセイ。
タイトルの「犠牲」に「サクリファイス」とルビを振っているのは、息子さんが好きだったというアンドレイ=タルコフスキーの映画「サクリファイス」にちなんでいるそうです。
「息子のために手記を書きたい」と言って、著者は死後8ヶ月ほどでもとになる手記を「文藝春秋」に掲載するのですが、そこら辺の発想というか、息子が救われるためには自分が再生しなければならない=仕事をするという姿勢は作家ならではの業だなぁと思いました。それは著者自身も自覚してて、後書きにそんな文があります。
しかし、中2の時に同級生が投げたチョークで失明の危機に遭い、どうやらそこら辺から精神を病んでいたのではないかと推測されつつ、発覚したのは20歳、自室の窓からガラスをぶち破って飛び降りた時で25歳で自殺するまで病と闘い続けたとは、こういう簡単な言葉で表現するのは何とも申し訳ないのですがまさに「生き地獄」というのがぴったりな感じもするのです。
クラスのなかでだんだん孤立していき、対人恐怖症に陥り、それでも人の役に立ちたい、人と、家族とつながっていたいという意志は持ち続けていた洋二郎氏と、順風満帆とは言いませんが、あちこちで挫折しつつ、すっ転んだり寄り道したりしつつも「自殺」なんてことは生まれてこの方、一度たりとも考えたことがない(痛いのと怖いのが基本駄目なので、自殺なんて恐ろしくてできないというのが子どもの頃の結論)わしとの違いはどこにあるのだろうかと思いました。
何とも驚いたことに、洋二郎氏とわしは同い年だったりもしますんで、彼が見ていたのと同じ時代をまったく同じように経験していたりするはずなんですが、わしは洋二郎氏の死後20年も生き続け、たぶん、この先もこんな調子でひょうひょうと生き続けていくだろうし、原発だの消費税だの、まぁ、いろいろな心配事も怒り事もあるけれど、それでも人生を最後まで渡っていって、最後の最期に笑えれば勝ちみたいな、そんなことを考えたりもします。
でも、考えてみれば30年以上も前、わしは母が「50歳くらいで死ぬかも」と言ったのを真に受けて「お母さん、死んじゃいや」と涙目で訴えたものですが、その母もとうに70を越し、食糧事情の悪かったことでは半端ない戦中派なもんで、このまま80、90まで大往生してくれそうですが、逆に核実験とか、合成食料品なんかに囲まれて、それほどうちの親が無神経だったとも言いませんが、避けようもなかった時代に生まれてしまったわしらは、むしろ逆縁の不幸はしたくないけど、少なくとも親の時代ほどには長生きできんのではないかと日々思い、思っており、なんという時代なのだろうなぁと暗澹たる気持ちになりつつ、それでもひょうひょうと渡っていけたなら、なんて思わなくもない今日この頃。
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