J.R.R.トールキン著。瀬田貞二訳。岩波少年文庫刊。全2巻。
久々に読みたくなって引っ張り出しきました。いつ読んでもおもしろいなぁ。瀬田貞二さんの、情景が思い描けるような訳は、やっぱり、わしの目指したい日本語であります。ビルボの、トーリン=オーケンシールドを初めとするドワーフたちの、ガンダルフの、ビヨルンの、エルロンドや森エルフたちの、バルドたち湖の町の人たちの、ワシたちの、ゴクリの、果てはゴブリンや蜘蛛、狼たちの、なんと生き生きしていることか! この世界に息づいていることか、今やトールキン教授の住まう遥かな中つ国は、相も変わらず美しく厳しく、心躍る冒険を潜ませて、一度でもその世界を垣間見た者に心からの憧れを呼び覚まさずにはおりません。
時はかの指輪戦争より遡ること60年ほど前、一人のホビット、ビルボ=バギンズ氏のお宅に、魔法使いのガンダルフが現れたことから、ビルボは13人のドワーフとともに、悪しき竜スマウグに奪われた父祖の宝を取り戻す、中つ国をまたにかけた冒険の旅に赴くことになるのでした。
慌ただしい旅立ちに始まり、トロールとの問答、最後の憩い館と呼ばれるエルロンドの館でのつかの間の一時、霧降り山脈を越える冒険、ゴクリとの謎なぞ問答、ビヨルン屋敷を訪ねたこと、恐ろしい闇の森を抜けるのに一難去ってまた一難、湖の町での過剰な歓迎ぶりと、ついに姿を表したスマウグの恐ろしい力とその最期、父祖の宝を巡ってのドワーフ、人間、エルフたちの欲と醜さ、ビルボのなした大いなる役割と、ゴブリンとの一大合戦、そして迎える大団円、と、緩急自在の展開は何度読み直しても、どきどきはらはらの大冒険です。
しかもこの話、何がいいって、美男美女なんてものが脇役にとどまってることでありましょう。主役のビルボからして、いい年のホビットで(ホビットの成人年齢は30歳なんで、若者というより分別のある中年です。ちなみに「指輪物語」のフロドも同じくらいだったはず)、下腹出てるし。ビルボの名誉のために言えば、ホビットとしてはごく標準的な体型ではありますが。13人のドワーフも、そのリーダーたるトーリンからして気難しい、誇り高い性格で、そのために過ちを犯したりもしてしまうわけですが、だいたい多かれ少なかれドワーフというのは欲の皮の突っ張った連中で、そこがまた愛すべき存在だったりするんですが、間違っても八頭身の美男美女なんていないし、だいたいドワーフの女性なんてのが天然記念物的な存在だし、ビヨルンはけむくじゃらのおっさん、ガンダルフはじじいときては、その手の美形が好きな向きにはお呼びじゃないよな登場人物ばっかりであります。
でも、たきがはがいちばん好きなキャラクターも、実は作中で一二を争うほど欲の皮の突っ張った人物であろう、トーリン=オーケンシールドだったりするんですけどね。由緒正しいドワーフの、世が世なら殿様だったりする家系なのに、スマウグに住処をおんだされて、仲間を集め、復讐の機会を虎視眈々と狙ってきたはずなのに、肝心の竜との戦いについては何にも考えてなかったくさい、誇りとプライドばっかりはやたらに高い、はた迷惑なおじいちゃまですよ。でも、どこが好きかっていったら、そのプライドの高いところだったりするんですけどね。そのトーリンがいまわの際に及んで、ビルボと仲直りするシーンは涙なしには読めません。
ガンダルフはお約束ですが、ビルボも好きですよ、わしは。心優しいホビット、最初のうちこそはてんで頼りありませんが、指輪を手に入れた辺りから、がぜん大活躍、最後の選択も、トーリンを傷つけてしまったきらいはありますが、結果的にはこれ以上ない選択だったと思います。ドワーフは無論のこと、人間やエルフまでがスマウグの残した宝を巡って、よこせの渡さないだのと一触即発の空気になったところを、ただ一人、ビルボだけが宝よりも平和を欲したのです。その姿は、ホビットだからこそ一つの指輪を滅ぼすべく定められた、甥のフロドを彷彿とさせます。ドワーフ、人間、エルフの、誰が運んでも自身も世界も破滅させたであろう、恐るべき力を持った一つの指輪、この一見素朴な冒険物語に壮大な神話的叙事詩「指輪物語」の萌芽を伺えると言ったら、誉めすぎでありましょうか?
かくて、お話はまだ続くのであります。
そんな話が書いてみたいものだと思わずにいられません。
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