監督:木下恵介
出演:永井隆(加藤剛)、永井緑(十朱幸代)、緑の母(淡島千景)、ほか
原作:永井隆
「カルメン故郷に帰る」とか「二十四の瞳」とか「喜びも悲しみも幾年月」など人情物を得意とされた(と記憶している)名匠・木下恵介監督の原爆物。ラスト、エンディングとスタッフロールで流れる「原爆詩集(峠三吉)」と「水ヲ下サイ(原民喜)」の合唱が大変印象強く、20年ぶりぐらいに再鑑賞となった。
テレビ放映は1985年だった(放映前に戦後40周年記念と流れるので。そういや、わしが子どものころは敗戦記念日や原爆の日などにはこの手の映画やドラマがいつもかかっていたもので、そういう流れで「黒い雨」とか「ひめゆりの塔」とか見たものであった。そして、こうした映画を通じて、戦争がいかにむごいものかを知り、さらに興味を覚えたたきがはは、戦争のむごさ以上に、戦争を起こす人間のエゴイズムとか、ヒロヒトに代表される権力者の自己保身、さらには沖縄戦で証明された、軍隊が民衆を守らないことなどを学んでいくんである。だから、こういう映画をかけることは大事なのだ。ラストで放映当時のローマ法皇ヨハネ・パウロ二世の言葉が紹介されているが、
「過去を振り返ることは
将来に対する責任を
になうことです」とは至言であると思う)。
どーでも良くないのだが、主演の加藤剛さん、たきがはも好きな俳優さんの一人なのだが、この方の俳優としての経歴の中で、1回、
ヒロヒトを演じたことは生涯の汚点であると言っていいと思った。
加藤剛さんの魅力は、なんちゅうても知性溢れるきりりとしたたたずまいであろう。なんちゅうか、背筋がいつもぴしっと伸びている。間違っても粗野な役はやらない。ちゅうか、この方が演じると粗野にならんのではないかと思う。「砂の器」の犯人役然り、大岡越前然り、である。
演じる永井隆博士は、長崎大学の教授で医師。被爆する前にレントゲンを長年使い続けたため、当時の技術レベルが低かったためだと思うのだが、微量の放射線を被曝しており、余命いくばくもないことは察していた。しかし、運命の8月9日、皮肉なことにと言うか、先にこの世を去ったのは、原爆に殺された妻の緑であり、博士自身も被爆したものの、生き存え、誠、茅乃の2人の子ども、妻の母と再会を果たす。そう言えば、娘さんの茅乃さんが亡くなられたというニュースが今年の2月に流れたので、覚えている人もいると思う。ちなみに原作となった「この子を残して」を、映画を見た後に読んでみたが、永井博士の宗教観が前面に打ち出され、わしはなじめなかった(真顔で「世界を神様が作られたと信じるね」と言われても、わしは決して「はい」とは言えないし、言わんので)。映画は、おそらく木下監督の意向だろうが、あるいは脚本家かプロデューサーか、そういった宗教色は極力消しており、作中で、被爆者の治療に当たる永井博士が、「私はもう駄目です」と言った女性に「天国でお会いしましょう」と別れの言葉を告げるところ(こういうのを見ると、つくづく宗教というのは死者ではなく生者を救うためのものなのだと思う)、カトリック信者の合同慰霊祭で代表となって弔辞を読むところ、その時に妻の墓碑に「マリア」というおそらく洗礼名と思われる名が書いてあるところ、さらにおばあちゃんもカトリックなので、母の身を案じる誠に「おばあちゃんが毎日マリア様にお祈りしてるから」と答えるところとか、被爆前日の夫婦の会話に「カトリック信者として静かに死を迎えよう(この時に永井博士は自分の死期を悟っており、妻にそう告げる)」と話すところ、永井博士自身の著作にある「長崎の鐘(これはほぼ爆心地の浦上天主堂の鐘のことだと思いますが)」を掘り起こすところ、クリスマスを迎えて、いわゆる、現代のわしらが想像するような騒々しいクリスマスでなく、キリストの生誕を祝う厳かな宗教儀式としてのクリスマスの朝を迎えたことを喜ぶシーンなどに見られるのみで、やたらに長くなってしまって何がなんだかわからなくなった方のためにもう1回書くと、熱心なカトリック信者だったと思われる永井博士の宗教観は、これらのシーンに伺えるぐらいである。わしも信者じゃないんで見落としがあるかもしれませんが。
ただ、妻の最後の会話となった自身の死期についての話から察せられるように、敗戦後も自身の死を「3〜4年以内」と考えていた永井博士は、いずれ孤児になる2人の子どもたちに強くなれと願い、育てようとする。その悟り方はやはり強い信仰心があってのものか、それとも博士自身の気質によるものかと言ったら、たぶん両方なんだろうと思うのだが、その姿勢は11人もの親族を原爆で失ったおばあちゃんにはかなり冷徹なものと写っていたようだ。
やがて、せっかく建てた家も妹夫婦に譲って、自身と2人の子は如己堂(にょこどう。「己の如く人を愛せよ」という意味でつけた)と名づけた2畳の家に住み、寝たきりの生活を送りながら、著作に励むようになる。初めて長崎に行った時に記念館と原爆資料館に寄りましたよ、わしは。しかし駆け足の旅行だったんで、また行きたい。
たきがはが話の筋を忘れていたのは、ラストの「父を返せ」「水を下さい」の合唱があまりにインパクト大だったのに加えて、誠が大村の小学校に行くようになった頃から、突然、大人になった誠の回想という形でナレーションが入るせいではないかと思う。ナレーションというのはあちこちで文句つけてますが、基本的に第三者なもんで、入ると見ている側としては白けてしまうことが多いんである。で、誠のナレーションで進む博士の最後と大人になった誠自身の働きについてはきれいさっぱりすっ飛ばしたものと思われる。
最後、誠は父の遺言を思い出す。「たとえ世界中から裏切り者と罵られても、茅乃と2人、戦争絶対反対を貫いておくれ」と加藤剛さん演じる永井博士の切々たる訴え。そこに被爆した長崎の町を描きつつ(あくまでもセットなんで実際はこの数十倍、数百倍もすごいと思うのだが、それでも日本人にしか描けない光景として、「The Days After」なんて映画を作る前にアメリカ人とか世界中の人が見ておいてほしいと思ったよ)、「父を返せ」の合唱が始まる。壮絶なラストである。
粗筋書いてるんだか、感想書いてるんだか、だんだん境がなくなってきたが、淡島千景さん演じるおばあちゃんについても書く。
永井博士が「尊い犠牲」と慰霊祭で犠牲者に向かって語りかけた後、おばあちゃんは「何が尊い犠牲なものか、緑も静子も原爆に殺されたんだ」と反論する。さすがに11人も失った人である。なかなか反論しがたい重みがある。しかし、永井博士はこれに「わたしは裁くことはできない」と応えるのである。ここが生活人であるおばあちゃんと知識人である永井博士の違いなんだろうかな、と思った。
さらに、浦上の家の跡にバラックを建てて住む永井一家を、米軍がやってきて写真を撮る。被爆地を、被爆者を「ニホンの子ども、かわいいですね〜」とたどたどしい日本語を話しながら、さも無神経そうに撮る。しかし永井博士はこれに快く応じてやっただけでなく、英語で「君たちの国の人、1人でも多くにこの写真を見せてほしい。長崎で何があったのか世界中に報せてほしい」と訴えるのである。兵士たちが思わず敬礼する。決して卑屈になることもない。肩肘張るわけでもない。凛とした姿勢である。
順番が逆になったが、1981年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日、2月23日に長崎を訪れている映像がトップに流れる。横殴りの雪が降る中、日本語で短い挨拶をするのは印象的なシーンだった。
それから本編に入っていくわけだが、8月7日から始まり、運命の日、8月9日、朝からかちこちと鳴り続ける時計の音は、よく使われる手法かもしれないが、緊張感を高めていく。
また、原爆ものとしては、大竹しのぶさん演ずる小学校の先生が被爆した火傷の痕を永井博士のたっての頼みで誠たちに見せるぐらいの負傷しか描かれないのも抑えた感じがして良い。
いろいろとネットで資料を検索していたら、密林ではDVDが売られていないのを知った。こういう名作をこそ、ぜひ、後世に伝えるためにもDVD化でも、ブルーレイでもいいからちゃんと作っておいてほしい。
4月14日に追記。木下恵介監督の
DVD-BOX 第6集に入ってました! リンク先は密林。
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