初めて慰霊式に行ってきた。埋め立て地の端、昨年、慰霊碑を建てた海のすぐ側でやったのだが、風がぶうぶう強くてたきがはも165cmはあるんだが、吹き飛ばされそうな強風で鼻水垂れそうになったよ。厳かな式典なのに。慰霊碑を作った場所が恋路島(こきじまと読む。無人島。水俣病事件前は水俣市民の牡蠣採りの場所であり遊び場でもあったけど、事件発生後、人が立ち寄らなくなったとか)にいちばん近いところなんだが、雨が降ったら最悪の場所やで。うちの職場の辺りはこんなに風も強くなかったしな。ちなみに去年も同じところでやって、雨が降って大変だったらしい。
去年かぁ。去年の時点ではぶろぐに「水俣病公式確認50年」とは書いたが、自分が水俣に行くとは思ってなかったもんなぁ。しみじみ。
たきがはも献花をしてきました。
で、患者・遺族代表で緒方正人さん、環境大臣、県知事、チッソ社長、小学生代表と祈りの言葉を捧げるわけですが、環境大臣のがいちばんなってなかったっすね。もう、誰が書いた作文読んでんのって感じで。まるで他人事で。当事者っていう自覚も、国が水俣病を拡大したという自覚も全くなくって。
チッソのはまぁ、当事者ではあるけど、なんつーか、型どおりと言いますか。
県知事さんは九州で初の女性知事の潮谷義子さんなんだけど、小さい人で、つい1週間ぐらい前に骨折して車いすとか聞いてたけど、杖をついてた。でも、自分で書いてきたんだろうなぁって文はやっぱり心がこもってたし、当事者意識のない国をちくちく刺してる感じも込められてたし、もともと福祉畑の出身で、県民のお母さんとか言われてるような人らしく、いい文だったと思う。
子どもたちのはちょっと長すぎたのと、内容に「?」がつくところがあった。「予想もつかなかった」水俣病、というのはちと違うと思う。水銀が猛毒であることは既に知られていた事実だったわけで。最先端の技術を扱う化学工場だったチッソは、その排水がどんな影響を与えるのか調べなければいけなかったはずで。その義務も怠り、排水を回収せずに垂れ流したから水俣病が起こったわけで。「予想もつかなかった」ことにしてはいけないと思った。また、「あっという間に汚された海」ではない。チッソが水銀を使い始めたのは明治時代。被害者はそのころから出ていたという記録はある。でも、そんな前に亡くなってしまった人の死因はいまさら調べられないし調べてもいない。長い時間をかけてチッソは水銀を海に垂れ流し、そのほかの重金属を垂れ流し、豊饒の海、魚湧く海とさえ言われた不知火海を徹底的に破壊した。その事実を取り違えてはいけないよ、と思った。
51年目を迎えた水俣。これから自分が何をできるだろうかと思う。
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