会場:茅ヶ崎ハスキーズギャラリー
パンを買いに茅ヶ崎駅まで行って、通りがかったビルに「宇都純子 朗読の会 ヒロシマを語る 12歳5ヶ月、広島で「戦死」した三重野杜夫の最期」とチラシが貼ってあったので、かねてよりヒロシマ・ナガサキにはこだわりのわたくしめ、開演時間も3時半と近かったこともあり、何時間ぐらいだろうと訪ねていった。
すると1時間ぐらいで終わると言うので、そのままチケットを買い、聞いてきた。
内容はタイトルどおり、広島で原爆に殺された12歳の少年のことなんだけど、そのお母さんの手記と、お姉さんによる手記が見つかった経緯やそれ以外の状況などが静かに語られた。ちなみに手記は広島の平和記念資料館に寄贈されたそうだ。
手記が書かれたのは8月6日〜11日。当時、三重野杜夫さんは広島一中の生徒さんで市内の建物疎開作業に従事させられていた。一緒に配られた地図を見ると広島一中は爆心地から1km以内、つまり、生存の見込みはほとんどない、全滅したゾーンに入ってしまう。
三重野さん一家は広島市の西、五日市市に住んでおり、その前は鎌倉にいたそうだ。しかし東京や横浜の空襲が激しくなるにつれ、鎌倉の物資も不足し、避難民が来るようになり、当時、海軍に勤務していたお父さんの「広島には空襲もないし、物資も足りている」という手紙により、一家で住むことになる。これが原爆投下の前触れだったことなど、誰も知らなかったのだから。
生存しているお姉さん2人も広島市内の学校に通っていたけど、8月6日はたまたま休みだったそうで、お父さんも生き延びた。しかし、末っ子の杜夫さんだけが帰らぬ人となってしまったのである。
一家は末っ子を捜して8月7日から広島市内に毎日のように入る。けれど、杜夫さんの姿は当然、一中にはなく、怪我を負って収容されているという情報もなかなか得られない。そのうちに同級生の母親から元気でいたということを知らされ、希望を持つも、杜夫さんの姿はどこにもなく、8月11日、8月7日に杜夫さんが何も身につけていない姿で倒れていたと知らされ、希望を絶たれたお母さんの手記もそこで終わっている。
希望を抱いて探しにいくも空振りに終わってしまったり、すぐ近くを通りながら、いたと言われた収容所に寄らないでいたり、なにしろまだ灯火管制の最中、戦争中なので夜間に危険を冒してまで探すことができず、後ろ髪を引かれる思いで帰ったりとお母さんの気持ちが乱れているのがいたましい。息子に「明日には会える」という呼びかけも、翌日には「国を見守っていてくれ」と変わっていたりして、当時の広島市の混乱と錯綜を思うに肉親に会うことがいかに難しかったのか、その困難さは現代に生きる我々には想像を絶することではないかとも思う。
お姉さんが会場に来ていて、挨拶をされた。成仏してくださいと言うけれど、鬼籍に入った者が成仏しては困ると言っていたのが印象的だった。
狭い会場だったのだが、最初はがらがらで、客が入るのか心配していたら、最後は椅子も足すほど盛況だったので、良かった良かった。ただし、わし以上の年代の人ばかりで、若いもんがおらんかったのが心配だ。
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