監督:岸善幸
原作:寺山修司
出演:新宿新次(菅田将暉)、バリカン健二(ヤン=イクチュン)、芳子(木下あかり)、堀口(ユースケ・サンタマリア)、馬場(でんでん)、健二の父(モロ師岡)、新次の母(木村多江)、宮本社長(高橋和也)、ほか
日本、2017年
親が見ているのにつき合っちゃったシリーズ。前後編で合計5時間の長編でしたが、ぶっちゃけ、自殺(を考える)サークルのエピソードを削り、健二の父親のエピソードと、無駄に多いセックスシーンを整理すれば1本で収まる尺だと思いました。
それにしても日本映画のセックスシーンというのは、どれもべたべたなのは、もはやお約束のレベルなんでしょうか?
父は自殺し、母に捨てられた新次と、韓国人の母が死に、日本人の父の暴力にさらされて生きてきた健二。2021年、2人の若者は新宿で出会い、ともにボクシングを始めることで分かちがたい友情で結ばれていくが…。
この物語全体を貫いているのは新次と健二の友情譚なわけです。原作だと健二のが主役っぽいですが、映画でもW主演とか謳ってますが、ラストの新次vs健二でようやく健二のモノローグが入ったように、どっちかというと主となってるのは新次の方で健二は副という印象でした。というか無理にW主演とか言わないで新次、というか菅田将暉で売りたかったら、新次にエピソードを絞り込めばもっとすっきりしたんじゃないかと思いますので、まぁ、脚本が駄目です(ちなみに書いたのは監督)。
そこに加えて駄目さ加減を押し上げているのが、よくわからない「西北大学自殺研究会」というサークルと、2021年という舞台設定、さらに奨学金を返せない人に強制的に自衛隊か介護をボランティアさせるという新法とそれに反対するデモ隊で、ここら辺の主人公2人に関係ない(自殺研究会の方は健二の父親が関わっていなくもないんですが。別に関わらせる必要性も薄いんで)エピソードを合間合間に挟んでいるせいで展開が間延びしていくのでした。
2021年というのは一応、東京オリンピックの翌年なんですけど、そもそも原作の小説が1966年に発表されているので時代を現代にスライドさせたのまではわかりますが、2017年ではなくさらにもうちょっと未来にした意図がまったく理解できません。で、そこに「自殺者が増えている」というネタを入れたのは現代社会への風刺なのかもしれませんけど、それ、そもそもメインテーマから外れているよね?というところで駄目なわけで、違くね?と思うわけです。
また、健二の性格というか人格形成を描くのにどうしても父親の存在は欠かせないんですが、それが元自衛隊で、その部下の一人が新次の父親でとなると風呂敷の拡げすぎでして、どうしたって映画の尺には収まりきりません。実際、伏線はいっぱいばらまいたけど、うまく収拾したとは言いがたいです。前後編だから無理に詰め込みましたな感がありありで、最初から削って一本にしろやと言いたいです。
あと「
はじめの一歩」ばりに逆転の一発を持ってる健二が、なぜ新次に負けるのか、ラストの2人の戦いにも納得がいきませんし、2021年の設定も生きてません。芳子が東日本大震災の被災者でという設定も蛇足なら、その母親を再登場させたのも無駄です。
さらに言えば、原発事故を起こした東都電力のクレーム対応係の社員も付け足し感がぬぐえず、正直、この話に大震災ネタはまったく不要でした。
「あしたのジョー」でもそうなんですが、というか、この話は寺山修司版の「あしたのジョー」だと思うんですが、だったら男2人の友情と対決に絞ればそれなりに見られる話になると思いました。つまり半分にできると。
あと「
そこのみにて光輝く」で、いい奴なんだけど暴力に走っちゃうキャラだった菅田将暉がかぶったので、そこも何とかしてほしかったです。
ユースケ・サンタマリアの堀口と高橋和也の宮本はまぁ良かったです。高橋和也はもともと上手い人なんですが、評価の低かったユースケ・サンタマリアはだいぶポイントを稼ぎました、わし的に。
逆にそれ以外は見所のない映画。俳優さんたちは頑張ってるけど脚本が駄目だから出直せと言いたい。
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