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されど平穏な日々

日々のつぶやきと読んだ本と見た映像について気まぐれに語るブログ。Web拍手のメッセージへのレスもここ。「Gガンダム」と「ジャイアントロボ」への熱い語りはオタク度Maxにつき、取り扱い注意! 諸事情により、コメントは管理人が操作しないと反映されません。時々、サイトの更新情報など。

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板門店ツアーほか

こうして通算3ヶ月の韓国での気まぐれ旅行の最後に板門店ツアーを選んだわたくし(単なる偶然と怠惰の賜物ですが)は、荷物を旅行会社に預かってもらって、観光バスに乗るのでした。

ちなみに板門店ツアーもDMZツアーもいくつも旅行会社があるので、コースは大差ないですが、自分の泊まってるホテルの場所とかで好きな会社を選ぶといいと思います。行ける行けないの日程もほぼ同じようですし値段も大差ないし。

DMZツアーの時はワゴン車で迎えに来てもらいましたが、今回は旅行会社があるプレジデントホテルに7時10分までに来いと念を押されました。ここでもパスポートを見せたり、DMZツアーよりも厳格な感じです。バスの座席も決まってたし(DMZツアーでは早い者順だった)。

英語ツアーしかないというDMZツアーと違って日本語のガイドさん付きでありがたいです。ただ、参加者は英語圏のがずっと多いそうで、まぁ、人口比を思えば無理もありません。
穴あきのジーンズ、短パンやタンクトップなど肌を露出する物、身体の線を強調するような服、ミリタリールック、作業着が禁止と服装の規程がかなりうるさいです。
また11歳以下のお子様も参加は禁止。
板門店現地では撮影方向も決められており、北側の兵士に合図とかも送っちゃいけない、指さしも禁止と禁止事項だらけですが、やっぱり板門店に行かないと韓国で忘れ物をしたと思うので頑張って日延べして行ってきました。

DMZツアーと同じようなコースで国境まで向かいます。今回は金網の向こう側に行くわけです。

再掲の二重の鉄条網。



そのため、観光バスの運転手さんは途中のキャンプ・ボニファス(ポプラ事件の犠牲者、ボニファス大尉による)までで、そこからは国連軍(と言っても現在は韓国軍と米軍のみ)の運転で板門店に向かいます。
二重のパスポートチェックと同行する軍人の姿に緊張感が増します。

本当はキャンプ・ボニファスで板門店についてのビデオを見せてもらうそうだったんですが、南北間の緊張が高まっているというんで縮小されて、そのまま板門店へ向かうわたくしたち。しかし後から来たツアーの連中はビデオを見ていたので、どういう理由なのか不明…。単に日本語版がなかったのか…?

しかも板門店では自由の家(真ん中にある大きな建物)で下ろされて、中を通って軍事停戦委員会議場(国境線上に立っている青い建物。青は国連の色なので青い建物は基本、南側、北側は茶色)に行っただけでポプラ事件のポプラの切り株と、帰らざる橋も見せてもらえませんでした。

軍事停戦委員会議場の中では撮影が可能だそうなんで、いろいろと撮ります。

南北の国境に沿って置かれた高さ15cmの敷石。「JSA」でオ=ギョンピル(ソン=ガンホ)とイ=スヒョク(イ=ビョンホン)が向かい合って立っていたところです(映画ではセットですが)。



それにしても窓硝子汚ねぇ。

ここで「JSA」のエンディングのカットが拾えたので貼っつけときますね。



名曲「忘れ去られた人々(原題:「Luchinushka」)にかぶる、ありし日の4人の姿に涙がこぼれます。ただ、比較的こわばった顔をしている南側の2人に対し、微笑んでこちらを見ているオ=ギョンピルと、笑いながらその後ろを行進しているチョン=ウジンに、後の悲劇で生死が分かれたのがうかがえるような気もします。実際のところ、この4人の中で生き延びたのはオ=ギョンピルだけですが。

ついでにその歌詞(日本語訳ですが)が印象的な「2等兵からの手紙」。



動画は「JSA」のダイジェストですな。

あと、銃撃戦で流れる「届かなかった手紙」。



この2曲を歌った金光石(キム=グァンソク)さんは31歳の若さで自殺してしまっており、「JSA」中にそのことを知ったオ=ギョンピルが「なぜ金光石は死んだのだろうな」と呟くシーンがあります。ロッテのチョコパイを生まれて初めて食べて、「俺はロッテのチョコパイより美味い物を作るのが夢だ」と言うシーンとか、ギョンピル兄貴のエピソードはいちいちいいvv

そういや、金光石さんが生まれた大邱(テグ)には行かなかったなぁ…。

閑話休題。

軍事停戦委員会議場のテーブル。



真ん中に置かれたコードがちょうど国境線を指しているそうです。

相変わらず汚い窓から北側も写してみます。



警備兵。



グラサンは伊達じゃなくて目線を相手に読まれないためだそうです。お土産屋さんでレプリカも売ってます。

室内。



奥の警備兵さんと記念写真を撮りましたが、どういう顔で写ったものか思案していたのでしかめっ面に…。

外から軍事停戦委員会議場と北側の板門閣(赤枠内に「板門店」の額)を見たところ。灰色の軍服は韓国兵、それ以外は国連兵です。なぜか北側の兵士の姿は見えず。



帰らざる橋もポプラも見られずにキャンプ・ボニファスに帰還します。

板門店のビジターセンター。



左の建物はお土産屋。見学にミリタリールックは禁止なのに売ってるのはいいのか。共和国のお金とかも売ってるそうなんですが、どれだかわからず。板門店のガイドブックのような本を買いましたが著者が元軍人のためか、国連軍を全面肯定なのが鼻について、いまいちでした。

板門店の見学がすぐに終わってしまったので時間が大幅に余りまして、臨津江(イムジンガン)公園に連れていかれました。
同じところを見てもしょうがないので、先日の見学では時間切れで見られなかったところを見学します。



自由の橋に近づいたり。



国際市場で逢いましょう」でドクスが持ってたのと同じような行方不明の肉親を記載した紙。



まだこんなにいるのかと思うと切なくなります。韓国では9月15日は旧盆で祝日ですが、その時に北側が故郷の人たちが臨津江公園に集まって先祖をお祀りするのです。その際、「離散家族を探します」という放送を行ったKBSが同じような番組を写すんだそうです。
ドクスが写ったタイミングの放送は2015年にユネスコの世界記憶遺産に登録されたとか。ちなみに光州5・18民主化運動の記録も登録されてます。

お昼に食べたカルビタン。このコースは強制的にお昼付きです。ベジタリアン向けにはビビンパ。飲み物は別料金。



韓国の秋の空。



この後、ソウルに帰ったら、荷物を受け取って仁川(インチョン)港を目指します。地下鉄1号線で東仁川駅からバスです。天安(チョナン)に行った時も1号線でしたが、九老(クロ)駅で分岐するのでした。

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ソウル歴史博物館ほか

漢陽都城にでも行ってみようと思いましたがソウルの公式観光ガイドブックのとおりに景福宮(キョンボックン)で下りたのに、行けるというタクシーが掴まりません。結局、泊まっているホステルから1km以内のソウル歴史博物館へ行きました。をい

この時に夏ももう終わりだったんで名残に、あとパリ・バゲットではさんざんお世話になったけど(朝ご飯食べたり昼ご飯食べたりネットしたり…)ピンスを食べたことがなかったので苺のピンスを食べました。確か1万ウォンくらい。ほんとは氷もマンゴージュースという、とことんマンゴーなマンゴーピンスが食べたかったんですが、同じようなことを考えた人がいたのか、季節の終わりだからか売り切れてしまってました。残念。

苺ピンス再掲



中に掲示してあった戦時中の標語。「この世界の片隅に」で出てきたかと思ったんですが、戦時カルタの間違いでした。まぁ、似たようなもんでしょうが。



ソウルの歴史が古代から現代まで展示してあって飽きません。ただ外国語の音声ガイドがあったらしいので(同じタイミングで見学していた白人のご夫婦が持っていた)日本語のもないか訊いてみればよかったです。

新国立競技場の斬新すぎるデザインで日本でも有名になった建築家ザハ=ハディドのデザインしたというDDP(東大門デザインプラザ)。



4万枚のアルミパネルを使っているんですが、どれ一つとして同じ物がないそうなんですが、全体を俯瞰できる場所を探すのが面倒だったんで一部だけ。
夜になったライトアップしてて、また別の顔を見せるんでしょうが、あんまり興味ないので行きませんでした。

世宗(セジョン)が建てたという普請(ポシン)閣。



朝鮮時代には一日の始まりを告げる鐘を鳴らしていたそうで、今も1日に1回と、除夜の鐘をつくそうです。
しかし、この鐘も日本統治時代に取り上げられたんだろうなぁ…。まぁ、朝鮮半島に限らず、日本中の鐘を徴収して弾丸や砲弾や飛行機や戦艦に替えて、それでアメリカに勝てると思ってるんだから大馬鹿野郎な連中だとしか思いませんが。

夕方になって眺めた光化門(クムファムン)広場。青枠内は李舜臣(イ=スンシン)将軍、赤枠内は世宗(セジョン)の像です。この地下に李舜臣将軍と世宗の博物館があります。



なぜか韓国での最後の晩ご飯(翌日は板門店ツアーから、そのまま仁川(インチョン)港に移動して船で中国に行くから)にパスタを選んでしまうわたくし。



クリームパスタにフライドポテトとステーキはくどかったです。やっと食べ終えて、韓国最後の夜は更けていくのでした…。

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戦争記念館ほか

板門店へ行くまでの暇つぶしにあんまり興味のなかった施設へあれこれと行ってきました。今日は戦争記念館。朝鮮戦争関連の施設かと思っていたら、それだけじゃなく、朝鮮半島が関わった戦争全般について取り扱った施設でした。

地下鉄4号線の三角地駅から1番出口を出るのですが、例によって肝心要の現地近辺の案内が悪く(カーナビに「目的地周辺です。音声案内を終了します」と言われてるような感じ)、裏から入りました。

戦争記念館に隣接したミュージアムウェディングホールって、需要があるんでしょうか? 軍人御用達?

この手の施設は基本、
・戦死者を英霊と讃える
・国連軍は絶対善
・連合軍が朝鮮半島のほぼ全土を焦土にしたことには口をつぐむ
なもんで、そこら辺は割り引いて見学します。

なかなか見応えのある展示でしたが、朝鮮戦争で戦死した「英霊」に爆弾三勇士なるものがいて、どこの大日本帝国だよとめまいがしてしまいました…

こちらはゲームとかで有名な七支刀。実物を見るのは初めてだったので撮ってみた。



前庭に立っているオブジェ。統一という悲願があるためか、どこも手を合わせたようなオブジェが置いてあります。

 

あと前庭の右(入り口から見て)の方に朝鮮戦争で使われた戦車や戦闘機、戦艦などが置いてありますが、あんまり興味がないのでさくっと見終えるわたくし。まだ5時台ですが、9月に入ったら日が短くなってましたんで。

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DMZツアーほか

DMZとは南北国境線の南北2kmの非武装地帯のことです。板門店ツアーと違って服装の規定が少々緩いですが、どちらも韓国の人たちが行けないことに代わりはなく、外国人専門のツアーとなっています。あと非武装地帯といっても国境線沿いですのでパスポートが必須です。

さらに南北間の緊張が募っているせいで板門店ツアーが限られた日数になっており、予約は3日前まで(警備する国連軍に「こういう人が行くよ」とリストを送り、そのリストとパスポートを照合するためらしいです)にしなければならず、行けるのはいきなり1週間後と言われてしまいます。うぇぇ…

たきがはがソウルに宿をとったゲストハウスは、地下鉄の市庁1番出口からすぐという最高のロケーションを誇るんですが、それだけに人気も高いらしく、2泊しかできないと言われてしまいます。
しょうがないので、ソウルの次はいよいよ中国に行こうと思っていたのでルートをあれこれ思案しまして、飛行機ではなく、仁川(インチョン)港からフェリーでも行けるというんで「1泊してる間に移動する」という言葉の美味しさにつられて(実際は2泊になったんですが)、船に乗るのに荷物が重くて大変だったことも忘れてフェリーで行くことを決めます。で板門店ツアーが半日で終わる(1〜2時くらいにはソウルに帰っている)ので、船便との兼ね合いもあり、板門店から帰ったら、そのまま中国に出発という慌ただしい日程となったのでした。だって営口行きのフェリーは火曜日と土曜日しか運行していないもんで、目的地・瀋陽(シェンヤン)(ほんとは撫順(フーシュン)のが便利だったけど列車とかとの兼ね合いもあり、結果的に瀋陽で良かった)に行くには大連よりも営口のがいいと思ったんですけど、この後の営口ターミナルでのすったもんだを思うと大連のが良かったような気がするけど、その場合、出会いもなかったわけなので、まぁ、これは結果オーライということで…。

閑話休題。

というわけでDMZツアーです。日本語のツアーは2人からと言われてしまったので泣く泣く英語ツアーに参加するわたくし。何言っているかほとんどわかりませんが、さんざん「トノ」と言っていたのは「トンネル」のことだと最後で気づきましたよ。

車窓からの風景。二重の鉄条網の向こう側がDMZです。



わしの乗ってったバス。当日はゲストハウスまでお迎えに来てくれて、ワゴン車で移動していたので「何だ少人数かい」と思っていたら、最後はこっちのバスに移りました。で、似たようなツアーがいくつもあるので(板門店に行ったのは別の会社のツアー)間違えないようにと思ってバスのナンバーを撮ったのです。まぁ、結果的には覚えやすい番号だったので間違えようもなかったのですが。



最初に案内された臨津江(イムジンガン)公園から眺めた自由の橋(赤枠内)。青枠内は日帝時代には大陸まで繋がっていた線路。
日本が滅茶滅茶にしてしまったこの国の歴史を思い、やるせない気持ちになります。



上の写真の右の図。こんな風に観光バスがいっぱいいるのです。



臨津江の流れ。川の向こうは朝鮮民主主義人民共和国です。まさに「橋のない川(住井すゑ著)」です。



臨津江公園にある遊園地。ここは朝鮮戦争の前に北から来た人たちが帰れぬ故郷を思って年に1回、旧盆の時にまとまった行事を行う(下の下の写真の赤枠内がそのための石碑)ところだそうで、韓国の人も臨津江公園までは来られるそうです。ただ、曜日によるのか、誰も遊んでいない遊園地というのは寂しいものだなぁと思いました。



日帝時代に使っていた蒸気機関車が飾ってあるエリア。統一を願うメッセージもいっぱい。



日帝時代は繋がっていたのに、今は何も走らない線路が悲しい。



京幾(キョンギ)線は文山(ムンサン)(いちばん左の駅)駅が終点ですが、かつては開城(ケソン)、平壌まで繋がっていたのだよという案内図。現在もDMZ列車ということで都羅山(トラサン)駅まで走っています。限られた人しか乗れないのだと思っていたら、誰でも乗れるそうですよ?



個人で来たら、けっこう見るところの多い臨津江公園。ツアーなんで駆け足です。



第3トンネルで熱弁(ただし英語)を振るうガイドの兄ちゃん。



何となく顔は隠してみました。

JSA」のイ=スヒョク(イ=ビョンホン)とソフィー(イ=ヨンエ)だろうと思われる人形。けっこうあちこちに置いてあります。どうしてスヒョクなんだろうと思ったら、オ=ギョンピル(ソン=ガンホ)は北側の兵士だからなんだな…。一応、主役だし。



第3トンネルというのは北側が掘ったとされるソウル侵攻用のトンネルです。第4まであるそうですが、いちばん長いらしいです。
見学には荷物を預け(通路が狭いから)、工事用の黄色いヘルメットをかぶって下りていきます。高さも身長165cmのわしでさえ、かがまないと通れない低いところがあり、白人さんの多いこのツアーでは大変そうですが、専用のモーターカーで下りることもできるようなんで、徒歩で下りたのはガイドの兄ちゃんの好みかもしれません。兄ちゃん健脚だったし…

内部は撮影禁止で、板門店ほど厳しくありませんでしたが、ガイドさんの言うことは守りましょう。最悪の場合、ツアーそのものが中止になっちゃいます。
板門店のガイドさんが言うには実際、別の理由でツアーが中断されたこともあるそうですんで。南北朝鮮は単に休戦中であり、いつでも交戦状態に巻き込まれてもおかしくない場所だという自覚が必要です。さすがにマイルールの中国人さえガイドの言うことには逆らいませんでした(国内ではもっと凄かった)。

第3トンネルを往復して、へとへとになってバスに戻るわたくし。

その後は都羅(トラ)展望台です。

天気がいいとこんなものが見えるよという観覧ガイド。当日は霧がちな天気だったので巨大な金日成像は見えず…。



京幾線の現在の終点、都羅山駅。



都羅山駅で買える入場券。1000ウォンなり。



龍山(ヨンサン)駅行きのDMZ列車の案内。龍山駅は地下鉄1号線でソウル駅の2つ南です。地方の駅からソウル行きのKTXはこの龍山駅が終点のが多いです。



これが別の日に偶然見かけた、ソウル駅に入ってきたDMZ列車。DMZってラッピングが派手。都羅山駅を発つのが4時なのでソウルには1時間20分で到着です。



上の方の写真と一緒ですが、京幾線の路線図。



都羅山駅のホーム。



ツアーの最後に連れていかれた高麗人参センター。



「トンカス」という綴りで愛されているトンカツ。これは晩ご飯のソースカツ丼ですが、カツ丼も見かけます。おかげでわざわざお高い日本食のレストランとか日本風の居酒屋に行かなくても良かったです。ただ味噌汁は期待しない方がよろしいかと。



中国のビザを韓国で取ることとかも考えて、翌日は中国大使館に行く予定です。

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柳寛順烈士史跡地ほか

今日は柳寛順(ユ=グァンスン)烈士史跡地の見学です。
前日と同じ400番のバスに乗りましたが、終点まで行っても「ユ=グァンスン」というアナウンスが聞こえません。どう見ても郊外の町でおしまいで途方に暮れるわたくしに運転手さんが「オディヨー?(何処に行くんだ?)」と聞きます。観光センターでもらった柳寛順烈士史跡地のパンフを見せますと運転手さん、そのまま乗っていろと言って(たぶん)、バスを走らせました。本当は終点から1kmくらい歩いて、烈士通りを通るんでしょうが、たきがははずるっこさせてもらって、柳寛順烈士史跡地の駐車場まで連れていってもらいました。カムサハムニダ!

柳寛順さんについて簡単な経歴を紹介しますと、天安市出身のお嬢さんで、ソウルの名門女子校・梨花(イファ)女子大学校の学生さんでもありました。しかし1919年の3・1万歳運動で学校が休校となり、故郷に帰った彼女は故郷でも万歳運動を企画、主導します。4月1日に天安(チョナン)市のアウネ市場で行われたデモには近隣では最多の3000人が参加しました。しかし、日本軍は武器も持たない平和的なデモに発砲し、柳寛順さんのご両親も含めて50人近くが死傷させられた上、主導者として柳寛順さんは憲兵に捕まり、懲役5年を宣告され、先日見学した西大門(ソデムン)刑務所に送られます。
わりと知られているのはこの時に撮られた写真です。眉も凛々しいお嬢さんだなぁと思いましたが憲兵による拷問とか受けていると思うと固く結ばれた口元に意志の強さも見え、弱気なところなんか見せないと思える強気な態度もうかがわれ、その壮絶な死とともに強く印象に残るのでした。
翌1920年、柳寛順さんは3・1運動の1周年記念を祝って監獄内で独立万歳運動を展開しますが、このために拷問を受け、9月28日に18歳の短い生涯を閉じたのです。

入り口にあった記念碑。



その後、記念館を見学し、追慕閣、殉国者追慕閣、記念公園と廻りましたが、烽火台(アウネ市場での独立万歳運動の実施を報せた)と招魂墓への行き方がわかりません。天安市の観光地図を見たところ、生家もちと離れたところにあるようです。観光案内所で訊ねたところ、受付のお姉さんが一緒に付き添ってくれまして、1時間ほど歩きました。カムサハムニダ!

バスで天安駅前に戻り、お昼を食べましたが、天安名物だというクルミ饅頭(ホドゥグァジャ)を食べましたが、最小でも20個入りしか売ってないのは何とかしてください…



翌日はソウルに移動して、今度こそ、DMZ行きと板門店行きのツアーに予約せねば…。←遅いよ!

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