山本周五郎著。新潮文庫刊。
周五郎さんには大変珍しい幕末物です。なんで珍しいかというと、何かと勇ましいことがもてはやされ、英雄扱いされるような人物を輩出した幕末という時代は周五郎さんの関心からは外れていたからです。市井の人物を描くことに専念していた作家にとり、大言壮語を吐くような輩しか闊歩していなかった時代には興味がなかったからです。
そんな時代に、東北の架空の小藩を舞台に、勇ましくもない人物を描いたのがこの「天地静大」という長編です。
四方を会津や仙台といった雄藩に囲まれた小藩・中邑藩。その藩主の弟に産まれ、家臣となった水谷郷臣という人物像を、郷臣に目をかけられていた若者、杉浦透の目を通して描き出す。
そう、主題は水谷郷臣、通称「おみさん」です。
藩主の弟でありながら家臣となって水谷姓を名乗ることになったおみさんには周囲から様々な期待や思惑、疑惑が寄せられ、幕末(まだ井伊大老が殺される前)という動乱の時代を背景に揺れ動くどころか大きなうねりが襲いかかります。これが元禄のような太平な時代ならばおみさんは自分の信念を貫くこともできたでしょう。しかし、開国と鎖国、攘夷と佐幕、勤王といった難しい選択を迫られるなかで小藩・中邑の立場はことさらに厳しいものでした。おみさんは自由気ままではいられなかった、いることは許されなかったわけです。
それでも結果的に自分の信念を貫くために自刃することになったおみさんは、山本周五郎さんが描いてきたたくさんの登場人物たちのなかでも大変魅力的だと思いました。常々、自分の命を絶つキャラには興味がないと言っているわしですが、おみさんはとても魅力的に映りました。
それはひとえに著者の力量の高さでもあると思うんですが、うっかりすると作中で皮肉屋とか自己否定とか言われるようなおみさんを、逆に周五郎さんは魅力的に描き、おみさんの立場を否定するような輩、幕末物に描かれるような志士たちを「はやり風邪どころではない、これは狂気に近いものだ」と言ってのけるところがわしの感性にぴたりと合うからではないかと思いました。
読んでいたら「樅ノ木は残った」をまた読み返したくなりました。こちらの主人公、原田甲斐も颯爽とした人物ではありません。でもやっぱり誰が好きかと言われると原田甲斐だろうと思います。隠れた名作です。
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