土本典昭監督。
成人した胎児性水俣病患者の人たちが、自分たちも仕事をしてみたい、と熊本出身の歌手、石川さゆりを水俣に呼んで、コンサートを企画した時の40日間を追ったもの。1978年、夏。
この当時の石川さゆりと言ったら、「津軽海峡・冬景色」でレコード大賞をとったころで、たきがは家では大晦日のテレビ行事は「レコード大賞」→「紅白」→「行く年来る年」というおきまりのコースであった。で、たきがはも彼女がレコード大賞を取ったのはよく覚えていて、もしかしたら、初めて覚えた歌謡曲は「津軽海峡・冬景色」だったかもしれん。その後、「聖母たちのララバイ」がノミネートから外された事件でたきがは家は「レコード大賞」を見なくなり(「ルビーの指輪」はその前だったかと)、「紅白」も必ず見るものじゃなくなっていった。でも「行く年来る年」は必ず見るのだった。
閑話休題。
石川さゆりはこの時、20歳。患者さんたちと同世代、所属していたホリプロが格安のギャラで請け負ってくれたそうな。石原慎太郎が口添えしてたのは知ってたが、どうやら石原プロも協力したもよう。
で、この時のホリプロの社長が、東京に挨拶に訪れた若い患者の会の代表に言った。「興行とは麻薬のようなものであり、まともな仕事ではない」と。この企画が成功したからといって、彼らが普通の仕事ができるということにはならないのだと。
けれど、暑い中、彼らは不自由な手でポスターを貼り、チケットを売り、船に乗って対岸の天草の島々に赴いた先で、同じ胎児性の患者たちに出会った。原田正純氏を始めとする支援者たちは、彼らにできることは手を出さずに見守ったと。
何もできないと思われ、仕事もさせられなかった患者たちが、自分たちの手でこれと決めた仕事を成し遂げてゆくさまは感動的であり、また、「けれど、これが終わったら、また日常に戻る」という無常観も残る。1つのことを成し遂げた彼らの姿は美しい。でも
たんぽこ通信 映画五十音リスト
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