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されど平穏な日々

日々のつぶやきと読んだ本と見た映像について気まぐれに語るブログ。Web拍手のメッセージへのレスもここ。「Gガンダム」と「ジャイアントロボ」への熱い語りはオタク度Maxにつき、取り扱い注意! 諸事情により、コメントは管理人が操作しないと反映されません。時々、サイトの更新情報など。

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地下水道

監督:アンジェイ=ワイダ
出演:コラブ(タデウシュ=ヤンチャル)、ディジー(テレサ=イジェフスカ)、ザドラ、ほか

アンジェイ=ワイダ監督の抵抗3部作の2作目。タイトルだけは知ってたんだけど、どこで聞いたのやら。
ワルシャワ蜂起でとある中隊が地下水道に潜り、迎える最期の日々、という話ですが、冒頭のナチスの攻撃を受けて崩れていくワルシャワ市はセットにしてはすごい大がかりっすね。それともまだこの時代のワルシャワは復帰してないのか。
1944年10月にワルシャワで蜂起したポーランド軍でしたが、その中心となったのはロンドンに亡命していた政府だったもので、ヴィスワ川までやってきた赤軍がそこで止まったのは有名な話。すでに冷戦の空気を感じるべきか、単に当時、ソ連邦の最高指導者だったスターリンのけつの穴の狭さを言うべきか。しかし、ポーランド側ではソ連を完全にあてにしとったもんで、すっかり当てが外れ、ワルシャワ市街はほぼ壊滅、戦後、復興に携わった市民の記憶を頼りに、煉瓦の壁のひびまで再現したとな。
で、この「地下水道」なんですが、ザドラ中隊長率いる中隊が、蜂起後56日目にして70人だった兵隊が43人に減り、赤い館と呼ぶ廃墟に立てこもったものの、ナチスの攻撃を受けて27人にまで減り、司令部へ助けを求めたところ、地下水道を通って中央区へ行け、と指示を受けたので地下水道に潜る、という話っす。
で、登場人物がザドラ中隊長のほかに、その副官であるモンドリ中尉、その不倫相手のハリンカ、記録係のコラブ、その恋人のディジー、伝令を務める少年兵ゼフィル、部隊に同行する民間人の音楽家などなどからなっております。特に誰が主人公というわけではない群像劇ってやつですね。

で、前作「世代」にも登場したタデウシュ=ヤンチャル氏がコラブ役なわけなんですけど、ナチスに包囲された時に、勇敢にも自爆戦車を止めて負傷、恋人のディジーに肩を貸してもらって地下水道へ行くあたり、かなりこの2人の扱いが大きいところはあります。ディジーの逞しさなんて、主人公なみだなと思ったり。
地下水道に潜ってから、中隊は3つに分かれてしまい、前述のコラブとディジーのほかに、モンドリとハリンカ、音楽家というグループ、ザドラ率いる本隊となります。
で、ナチスが地下水道に毒ガスをまいたというデマに惑わされつつ、中央区を目指すわけですが、道を知っているのがディジーなもんですから、コラブとディジーは目的地近くまでたどり着いたけど、モンドリ・グループは完全に道に迷った上、音楽家が途中で気が狂ってしまい、地下水道をオカリナを吹きながら彷徨っていった上、モンドリに妻子がいると思ってなかったハリンカが自殺をはかったり、とさんざんな展開。モンドリも登場時は部隊の兵士に鉄の規律を教え込んだ鬼中尉と描写されるのに、敵が包囲してきてるってのにハリンカとベッドシーンをやらかすとはなんかいいところがありません。負傷したコラブを助けたところが最期の見せ場と言ってもよい。結局、最期はやっと地上に出たものの、同じポーランド軍が捕まっていて、自分も囚われてしまい、すでに射殺されたポーランドの兵士がいるところを見ると、末路は真っ暗と思われます。
で、ザドラ中隊長は、一応頑張って部下を率いていたんですけど、なにしろ汚水からガスが発生して環境的にも劣悪な地下水道(地下水道というか下水道だな)、部下がだんだんといなくなってやっと地上に出た時には2人だけ。しかも、中隊長は部下がついてきているものと思っていたのに、一緒にいた副官だか何だかよくわからん人が「部下はとっくに死んでいる」とか言われて撃たれちゃったり、中隊長はまた地下に下りていったり、とこちらも「駄目だ、こりゃ」な展開。
唯一希望の見えたコラブ&ディジー組も、コラブが左胸を撃たれる重傷で疲労、最後の坂を登れずにヴィスワ川を目指した二人でしたが、川に出るところにはしっかりと鉄格子があって抜けられない、というこれまた絶望的な展開となりました。

ま、ネタがネタだからな。ディジーの逞しさが個人的には好みでしたが、物語はあくまでもワルシャワ蜂起の最中に地下水道に下りることになったとある中隊の末路を描くだけなんで、その後、どうしたのかは語られません。

それにしても地下水道は、汚水が多いところでは胸まである深さ。設定が設定とはいえ、演じる役者さんたちも大変だったろーなーと思いました。ディジーなんて地下水道に下りてすぐに上はキャミソール1枚になってるし。ワイダ監督って、こういうところはけっこうリアリストなんだろーなー。

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世代

監督:アンジェイ=ワイダ
出演:スターショ(タデウシュ=ウォムニツキ)、ドロタ(ウルスラ=モジンスカ)、ヤーショ(タデウシュ=ヤンチャル)、ムンデック(ロマン=ポランスキー)、ほか

某国営放送でポーランドの映画監督、アンジェイ=ワイダさんのが3本連続でかかりまして、前から見たかったものですから、撮ってもらいました。ネットでちょっこら情報を収集したら、この「世代」はワイダ監督のデビュー作で1954年、俗に「地下水道」「灰とダイヤモンド」と合わせて抵抗3部作と言われているようです。
ポーランドは初めて行った海外旅行というのもありますが、今も各地に残るホロコーストや第二次世界大戦の傷痕などから気になる外国で、「地下水道」と「灰とダイヤモンド」は、一度見てみたいな〜と思っておりました。
たきがはが見たことがあるのは「コルチャック先生」だけですな。

物語はナチス・ドイツ占領下のポーランドの一都市。人民警備隊を名乗る反ナチ運動の活動に加わった勤労学生のスターショが、同僚であるヤーショとともに戦い、ドロタの指導を受けながら活動家となっていく様子が骨太な映像で描かれてます。ヤーショは一度、「人殺しはたくさんだ」と言って活動から手を引きますが、蜂起したユダヤ人を助けた時に囮となって自ら死を選びます。ドロタは市民警備隊のリーダーでしたが、工場の幹部ににらまれて活動のしづらくなったスターショと住処を引っ越す直前にゲシュタポに捕まってしまいました。残されたスターショはドロタの言い残した合言葉とともに部下を率いることになり、というところでエンド。

世代は替わってもこうして戦いは続けられていくのだ、というワイダ監督の骨太なメッセージが伝わるラストでした。

スターショの同僚ムンデック役で出演のロマン=ポランスキーさん、どっかで聞いた名前だな〜と思っていたら、「戦場のピアニスト」の監督だったよ。

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この子を残して

監督:木下恵介
出演:永井隆(加藤剛)、永井緑(十朱幸代)、緑の母(淡島千景)、ほか
原作:永井隆

「カルメン故郷に帰る」とか「二十四の瞳」とか「喜びも悲しみも幾年月」など人情物を得意とされた(と記憶している)名匠・木下恵介監督の原爆物。ラスト、エンディングとスタッフロールで流れる「原爆詩集(峠三吉)」と「水ヲ下サイ(原民喜)」の合唱が大変印象強く、20年ぶりぐらいに再鑑賞となった。
テレビ放映は1985年だった(放映前に戦後40周年記念と流れるので。そういや、わしが子どものころは敗戦記念日や原爆の日などにはこの手の映画やドラマがいつもかかっていたもので、そういう流れで「黒い雨」とか「ひめゆりの塔」とか見たものであった。そして、こうした映画を通じて、戦争がいかにむごいものかを知り、さらに興味を覚えたたきがはは、戦争のむごさ以上に、戦争を起こす人間のエゴイズムとか、ヒロヒトに代表される権力者の自己保身、さらには沖縄戦で証明された、軍隊が民衆を守らないことなどを学んでいくんである。だから、こういう映画をかけることは大事なのだ。ラストで放映当時のローマ法皇ヨハネ・パウロ二世の言葉が紹介されているが、
「過去を振り返ることは
 将来に対する責任を
 になうことです」

とは至言であると思う)。

どーでも良くないのだが、主演の加藤剛さん、たきがはも好きな俳優さんの一人なのだが、この方の俳優としての経歴の中で、1回、ヒロヒトを演じたことは生涯の汚点であると言っていいと思った。

加藤剛さんの魅力は、なんちゅうても知性溢れるきりりとしたたたずまいであろう。なんちゅうか、背筋がいつもぴしっと伸びている。間違っても粗野な役はやらない。ちゅうか、この方が演じると粗野にならんのではないかと思う。「砂の器」の犯人役然り、大岡越前然り、である。
演じる永井隆博士は、長崎大学の教授で医師。被爆する前にレントゲンを長年使い続けたため、当時の技術レベルが低かったためだと思うのだが、微量の放射線を被曝しており、余命いくばくもないことは察していた。しかし、運命の8月9日、皮肉なことにと言うか、先にこの世を去ったのは、原爆に殺された妻の緑であり、博士自身も被爆したものの、生き存え、誠、茅乃の2人の子ども、妻の母と再会を果たす。そう言えば、娘さんの茅乃さんが亡くなられたというニュースが今年の2月に流れたので、覚えている人もいると思う。ちなみに原作となった「この子を残して」を、映画を見た後に読んでみたが、永井博士の宗教観が前面に打ち出され、わしはなじめなかった(真顔で「世界を神様が作られたと信じるね」と言われても、わしは決して「はい」とは言えないし、言わんので)。映画は、おそらく木下監督の意向だろうが、あるいは脚本家かプロデューサーか、そういった宗教色は極力消しており、作中で、被爆者の治療に当たる永井博士が、「私はもう駄目です」と言った女性に「天国でお会いしましょう」と別れの言葉を告げるところ(こういうのを見ると、つくづく宗教というのは死者ではなく生者を救うためのものなのだと思う)、カトリック信者の合同慰霊祭で代表となって弔辞を読むところ、その時に妻の墓碑に「マリア」というおそらく洗礼名と思われる名が書いてあるところ、さらにおばあちゃんもカトリックなので、母の身を案じる誠に「おばあちゃんが毎日マリア様にお祈りしてるから」と答えるところとか、被爆前日の夫婦の会話に「カトリック信者として静かに死を迎えよう(この時に永井博士は自分の死期を悟っており、妻にそう告げる)」と話すところ、永井博士自身の著作にある「長崎の鐘(これはほぼ爆心地の浦上天主堂の鐘のことだと思いますが)」を掘り起こすところ、クリスマスを迎えて、いわゆる、現代のわしらが想像するような騒々しいクリスマスでなく、キリストの生誕を祝う厳かな宗教儀式としてのクリスマスの朝を迎えたことを喜ぶシーンなどに見られるのみで、やたらに長くなってしまって何がなんだかわからなくなった方のためにもう1回書くと、熱心なカトリック信者だったと思われる永井博士の宗教観は、これらのシーンに伺えるぐらいである。わしも信者じゃないんで見落としがあるかもしれませんが。
ただ、妻の最後の会話となった自身の死期についての話から察せられるように、敗戦後も自身の死を「3〜4年以内」と考えていた永井博士は、いずれ孤児になる2人の子どもたちに強くなれと願い、育てようとする。その悟り方はやはり強い信仰心があってのものか、それとも博士自身の気質によるものかと言ったら、たぶん両方なんだろうと思うのだが、その姿勢は11人もの親族を原爆で失ったおばあちゃんにはかなり冷徹なものと写っていたようだ。
やがて、せっかく建てた家も妹夫婦に譲って、自身と2人の子は如己堂(にょこどう。「己の如く人を愛せよ」という意味でつけた)と名づけた2畳の家に住み、寝たきりの生活を送りながら、著作に励むようになる。初めて長崎に行った時に記念館と原爆資料館に寄りましたよ、わしは。しかし駆け足の旅行だったんで、また行きたい。

たきがはが話の筋を忘れていたのは、ラストの「父を返せ」「水を下さい」の合唱があまりにインパクト大だったのに加えて、誠が大村の小学校に行くようになった頃から、突然、大人になった誠の回想という形でナレーションが入るせいではないかと思う。ナレーションというのはあちこちで文句つけてますが、基本的に第三者なもんで、入ると見ている側としては白けてしまうことが多いんである。で、誠のナレーションで進む博士の最後と大人になった誠自身の働きについてはきれいさっぱりすっ飛ばしたものと思われる。
最後、誠は父の遺言を思い出す。「たとえ世界中から裏切り者と罵られても、茅乃と2人、戦争絶対反対を貫いておくれ」と加藤剛さん演じる永井博士の切々たる訴え。そこに被爆した長崎の町を描きつつ(あくまでもセットなんで実際はこの数十倍、数百倍もすごいと思うのだが、それでも日本人にしか描けない光景として、「The Days After」なんて映画を作る前にアメリカ人とか世界中の人が見ておいてほしいと思ったよ)、「父を返せ」の合唱が始まる。壮絶なラストである。

粗筋書いてるんだか、感想書いてるんだか、だんだん境がなくなってきたが、淡島千景さん演じるおばあちゃんについても書く。
永井博士が「尊い犠牲」と慰霊祭で犠牲者に向かって語りかけた後、おばあちゃんは「何が尊い犠牲なものか、緑も静子も原爆に殺されたんだ」と反論する。さすがに11人も失った人である。なかなか反論しがたい重みがある。しかし、永井博士はこれに「わたしは裁くことはできない」と応えるのである。ここが生活人であるおばあちゃんと知識人である永井博士の違いなんだろうかな、と思った。

さらに、浦上の家の跡にバラックを建てて住む永井一家を、米軍がやってきて写真を撮る。被爆地を、被爆者を「ニホンの子ども、かわいいですね〜」とたどたどしい日本語を話しながら、さも無神経そうに撮る。しかし永井博士はこれに快く応じてやっただけでなく、英語で「君たちの国の人、1人でも多くにこの写真を見せてほしい。長崎で何があったのか世界中に報せてほしい」と訴えるのである。兵士たちが思わず敬礼する。決して卑屈になることもない。肩肘張るわけでもない。凛とした姿勢である。

順番が逆になったが、1981年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日、2月23日に長崎を訪れている映像がトップに流れる。横殴りの雪が降る中、日本語で短い挨拶をするのは印象的なシーンだった。
それから本編に入っていくわけだが、8月7日から始まり、運命の日、8月9日、朝からかちこちと鳴り続ける時計の音は、よく使われる手法かもしれないが、緊張感を高めていく。
また、原爆ものとしては、大竹しのぶさん演ずる小学校の先生が被爆した火傷の痕を永井博士のたっての頼みで誠たちに見せるぐらいの負傷しか描かれないのも抑えた感じがして良い。

いろいろとネットで資料を検索していたら、密林ではDVDが売られていないのを知った。こういう名作をこそ、ぜひ、後世に伝えるためにもDVD化でも、ブルーレイでもいいからちゃんと作っておいてほしい。

4月14日に追記。木下恵介監督のDVD-BOX 第6集に入ってました! リンク先は密林。

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男たちの大和 YAMATO

監督:佐藤純彌
出演:森脇(反町隆史)、内田(中村獅童)、神尾(松山ケンイチ)、内田の養女(鈴木京香)、現代の神尾(仲代達也)、ほか
原作:辺見じゅん

2005年の邦画では最大のヒット作だそうです。そのころは映画を映画館まで見に行くことをまったくしなくなっていたので関心ありませんでしたが、地上波でかかったのでどんなものかと思って見てみました。

戦闘シーンは迫力あったけど、映画としては退屈でした。
過去と現代(2005年)が交互に描かれるんですが、現代のシーンがいまいち。鈴木京香って何を演じてもひょうひょうとした感じがして、「生き恥をさらしても」と生き延びた父親の重さが感じられない。別に悲壮さをたたえろとは申しませんが、「父の気持ちがわかったような気になりました」とか言っておいて、次の瞬間には「あ、そう」と流されそうな。キャストとしていまいちだな〜
で、仲代達也、この人、うまいと思うんですけど、なんか、神尾役としてはいまいちでした。大和の乗組員として生き残り、徐々に語られてゆく過去、最後では亡くなった戦友の母親に「ごめんなさい」と謝るキャラが、原爆で幼なじみの娘も失い、家族も失い、大和の沈没地点に近い、鹿児島県枕崎で漁師をやっていたけど、大和の慰霊式には出席したことがない、というのがなんかつながらなかった。現代の仲代達也になって、なんか違和感ありありというか。最後の方で心臓病で倒れるシーンとかいただけない。うーん、こんなに大根だったっけ、この人?
さらに、ジブリとか北野武映画ではおなじみの久石謙音楽、だめだ、こりゃ。わし、この人の音楽ってどーもなじめない。「Dolls」しかり、「千と千尋の神隠し」しかり。
過去のシーンはまずまず良かったんじゃないかと思います。ただ、そうでなくても顔が覚えられないうちから同じ制服だし、そのうちに帽子かぶっちゃうし、神尾と西以外は見分けがつかず、内田、森脇と仲のいいのも誰だかわからんうちに終わりました。神尾と内田と森脇がメインなんだと思うんですが、だったら、この3人に話をしぼって、描いてほしかったな、と。

ところで、わし、大和って初戦で沈んだと思ってたんですが、ミッドウェー海戦とか出撃してたんすね。だから何だってわけじゃありませんが。

ただ、話の中で特攻同然に沖縄に出撃することになった大和の乗組員が、非情な作戦にいろいろと葛藤するのさ。そこらへんはわかるんだけど、なんちゅうかな、大和の存在自体が、この時点ではすでに時代遅れになってるじゃないですか。世界の戦争は巨大軍艦同士の戦いから、飛行機による電撃戦に替わってて大和って時代遅れの船だったんだよね。だから、すでに存在自体が無駄っちゅうか。それなのに沖縄に護衛の飛行機もなしに突っ込むという無駄の上に無駄の上塗りっちゅうか。
もともと資源の乏しい日本は、大和を作るためにどれだけの犠牲を払ったのかとか。

Wikipediaなんか読むと、「反戦映画」だそーですが、なんちゅうかな、大和というだけで、すでに「悲劇の軍艦」とか、「世界最大の軍艦」とか、「悲劇的な最後」とかあるでしょ。それでその最後の戦闘を描いて、なんかその時点で、もう「反戦」から離れてるような気がする。こういう危ういシンボルを使わずに戦争を描くことはできないのかと思うのだ。

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闇の子供たち

原作:梁石日
監督:阪本順治
出演:南部浩行(江口洋介)、音羽惠子(宮崎あおい)、与田博明(妻夫木聡)、梶川克仁(佐藤浩市)、清水哲夫(豊原功補)、ナパポーン(プライマー=ラッチャタ)、チット(プラパドン=スワンバーン)、ほか
見たところ:新宿ミラノ3

原作といい監督といい実力派が揃ってるのに、ネタの消化不良というか、キャストのいまいちぶりというか、中途半端な一作。タイにおける子供の買春、臓器売買というネタは日本人として見逃せないものであると思うが、エンターテイメントにもドキュメンタリーにも徹せられなかった半端さが気になった。

例によってネタばれしておりますが、特に伏せません。

日本新聞社タイ支局に勤める南部浩行は、同僚・清水が発掘した子どもへの心臓移植が、生体からのものだと知り、取材を始める。金で買える命、日本人の買春ツアー、その闇はあまりに深い。同じころ、日本からタイの子ども教育のNGOに参加した音羽惠子は、そこに通っていた少女が行方不明になったことを知らされるが…。

ええとですね、いきなりラストからいきますが、南部浩行がペドフィリアだったという落ちは、まったくの蛇足だと思います。ええと、監督としてはどういう意向で入れたのか知りませんが、南部もまたタイで子どもを買春する日本人の一人にすぎない、という落ちは、それまでの南部の行動を否定するものであり、途中、南部と与田がチットに銃で脅され、取材をやめろと言われたのに、南部が「薄汚い日本人と同じだと思われたから(取材は)やめない」と言った台詞(チットには土下座したけど)に反するもので、じゃ、いままでの取材っていったい何だったのよ、ということになります。つまり、南部は忘れていたけれど、実はペドフィリアだった自分を疎ましく、あるいは後悔しており、その無意識の謝罪が命がけの取材につながった、とするには、それまでの南部の行動が「こいつ、なんか裏があるから、こんなに無茶するんだな」というキャラには見えんわけです。だから、すごく唐突、何で?とわしは煙に巻かれたんでした。ラスト、惠子に「手を離して」と言われて、いきなり少年を買春した自分の記憶がフラッシュバックされても、置き去りにされた感じのが強いです。補足的に、行方不明になったらしい南部のマンションに、与田と清水がやってきて、与田が息子だと思っていた少年が、実は全然無関係だったり、布きれで隠された壁が未成年への性犯罪の記事で埋まってたりというシーンも、全部後付にしか見えません。
さらに、音羽惠子という人物は、「アジアの子どもたちが悲しくて」タイに向かうわけですが、いったん南部と一緒に帰国します。日本の子どもの心臓移植がタイで行われ、実は生体からの移植だと知って、日本の親にそのことを思いとどまってもらおうとでもしたのでしょうか? しかし、彼女はこの梶川という夫婦にヒステリックに自分の感情をぶつけるだけで役に立たないばかりか、またタイに帰るんですけど、NGOに通っていたアランヤーという少女を助けるまではまだ良かったんですが(それにしても、エイズを発症している娘がいるのに、血を流すような傷を負って手当をしないというのはフィクションとはいえ、あまりに脳天気すぎないですかね? エイズって血液感染するんだよな? 惠子もエイズが移るかもって心配しろよ、しないだろうけど)、幾度も描写されたペドフィリアたちが通う少年少女の買春宿の摘発に、惠子のNGOが立ち会うというのは免罪符にもほどがなかろうかと思いました。途中、このNGOが集会中、ボランティアだと思っていた青年が実はヤクザな組織のスパイで、彼の発砲で集会がめちゃめちゃになる、というシーンがあったんですが、ここで惠子は「日本に帰れ」という南部に反対して、タイに残り続けるんですけど、そんな彼女にさらにお土産やらんでもええやんかと思うのです。そんなに大したキャラじゃないし。しかし、常々乳臭いと思っている宮崎あおいのキャラには、こういう青臭い娘っこはかなり合うキャラだなんて思ったけんど。
さらに、NGOのボランティアの裏切りもなんかおかしなシーンでした。集会をつぶすために発砲? だったら、自分が警官に射殺されちゃったらだめだめじゃん。

清水を演じた方、どっかで見た顔だな〜と思ってたんですが、結局、知らない人だったことが判明、うーん、誰と勘違いしたのやら。

買春宿からゴミとして捨てられた少女が、自力で脱出し、田舎で朽ちてゆく一連のエピソードはなかなか残るものがあったのですが、ずいぶん逃げたなぁ。それとも、ゴミ捨て場がたまたま郊外だっただけか?

いろいろと納得いかない映画でした。

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