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されど平穏な日々

日々のつぶやきと読んだ本と見た映像について気まぐれに語るブログ。Web拍手のメッセージへのレスもここ。「Gガンダム」と「ジャイアントロボ」への熱い語りはオタク度Maxにつき、取り扱い注意! 諸事情により、コメントは管理人が操作しないと反映されません。時々、サイトの更新情報など。

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貧者の核爆弾

中村正軌著。文藝春秋刊。

大昔に読んだ小説ですが、その頃のわしでさえ、いや〜、この作者、まじかと思うような描写のオンパレードで、たぶんブクオフか古書店で100円均一ぐらいで買った本だったので、こんなつまらねぇ本読ませやがって、金返せ馬鹿野郎ぉぉぉ!!!とならなかったんじゃないかと思いました。しょせん100円だからと諦めたような気がします。

内容は覚えている限りで書きますとアフリカあたりの小国(ぐぐったらリビアと判明)が、貧者の核爆弾、つまり毒ガス(でも生物兵器だったかも)の開発に着手して、偶然、そのことを知ったか、依頼された日本人のビジネスマンが、かつてのアメリカ留学の同級生たちとチームを組んで阻止しようと潜入作戦を開始する、という話でした。最後は阻止してめでたしめでたしだったんですけど、実在の国家の元首(その当時はカダフィ大佐)を徹底的に小馬鹿にした描写がまず、金返せポイントの1で、おいおい、こんな本書いたら抗議されねぇ?と真面目に心配したものですが、なぜか著者は国際小説の第一人者という定評があったらしく、どこら辺が第一人者なのか、大国アメリカにはとことん媚びる描写と小国をとことん貶める描写からは疑問符しか湧きませんでした。

で次の金返せポイントの2というか、背筋にさぶいぼポイントは主人公チームが学生時代にスポーツをやっていまして、その時のチーム名が確かマーモットでした。たぶん、これは合ってる。だから覚えてる。で、何か合い言葉のように二言目には「マーモット!」って叫ぶんですわ。やったね!みたいなノリで。30過ぎたおっさんたちが。確か。20代の若造ではなかったはず。で、これが最初から最後まで続く。何かあると「マーモット!」と言ってはしゃぐ主人公チームに、わしはいかにもな日本的な体育会系のノリというやつが大嫌いなものでしたから、すっかりどん引き(という言葉もなかった時代ですよ)しまして、すっかり主人公チームが嫌いになってました。でも最後まで読んだわけです。どんなにつまらねぇ本でも最後まで読むのがポリシーだから。でも最後まで同じノリでつまらなかったけど。最後まで行ったらおもしろいかも、という期待もしなかったけど。

で金返せポイントの3は、潜入作戦に何で素人なの?というところだった気がします。船戸与一氏だと自衛隊あがりとかよくありますが、確かそれではなかったはずだけど、ここはよく覚えていないんでこれ以上、突っ込まないでおきます。

たぶん、わしはその時にはすでに船戸与一氏の「砂のクロニクル」を読んでました。忘れもしない御茶ノ水駅前の古本屋でタイトルの格好良さに惹かれて衝動買いした本が大当たりだったのです。よく知らないイランという国や、名前も(確か)知らなかったクルド人たちの置かれた状況とか、そこに絡む2人のハジ(巡礼者という意味)と呼ばれる日本人とか、それまで読んできた小説が途端に子どもっぽく思えるスケールの大きさというか視点の広さに船戸与一すげぇ!!!と賞賛の嵐だったのです。

まぁ、比べるものじゃない、個々の小説の良さを見なければという意見もあるかもしれませんが、わしのなかで、この作者の名前が永劫に忘れられたのは間違いありません。だいたい船戸与一氏と中村なんとかを比べるのもおこがましいっていう。船戸与一氏に失礼極まりないっていう。

ふと思い出したんで穴埋めがてらに書いてみました。

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暴力の経験史

今井宏昌著。法律文化社刊。

サブタイトルは「第一次世界大戦後ドイツの義勇軍経験1918〜1923」ですが、何でこの本を読もうと思ったのかが不明です。ナチに引っかからなくもないんですが、どっちかというとワイマール(本書ではヴァイマル)共和国だし…
知らないことを知るという醍醐味は味わわせてもらいまして、おもしろいにはおもしろかったんですが最後まで動機がまったく思い出せませんでした。

第一次世界大戦で敗北したドイツで芽生えた義勇軍の経験者3名を題材に、異なる道を歩んだ個人史を追った本です。
ただ、右翼に突き進み、フランス軍に処刑されたことで後にナチスに模範的な第三帝国の兵士に祭り上げられたシュラーゲターが、そもそもどうして右翼に進んだのか、単に元々保守的な思考の持ち主だったのか、従軍前は聖職者を目指していたので、そっちに流れやすいのか、他の二人もそういう掘り下げが足りなかったような気がしました。
まぁ、あくまでも主題が義勇軍を同じように経験しながら、右翼、社会主義者、共産主義者と共闘とまったく正反対の思考をたどってる三人の流れなんで、もともとの思考とかイデオロギーは考慮してないのかもしれません。

個人的には社会主義者といったり、コミュニストといったり、アクティビストだの、横文字使うのが多くて読みづらかったです。

あと残した書簡の量によるんでしょうが、右翼青年シュラーゲターが圧倒的に多くて、社会主義者レーバーはその半分、コミュニストと共闘したレーマーは1/3とボリュームに大差があるのは何でだったんですかね? 

また完全にドイツで終わった本書でしたが、義勇軍と似たような組織といったら、日本ではさしずめ自警団になるんじゃないかと思いましたが、別に侵略されたわけでも占領されたわけでもないのに

以下引用。

彼らの言語道断な不法行為を、いわゆる「愛国心」として免罪し、完全に隠蔽しはしなかっただろうか? エーアハルトやロスバッハ(いずれも義勇軍の指導者)といった犯罪者は、このような精神にもうろうと包まれながら、自らを半神のようだと錯覚しなかっただろうか? 要するに彼らは、その殺害行為を画策したとき、自らを祖国の救世主とみなしていたに違いないのである

引用終わり。

ここ、レーバーの義勇軍戦士の「殺人心理」の分析なんですが、まんま、関東大震災後の自警団の心理になぞらえられて、ピンと来たのはここら辺だけでした。

次からはジャンルぐらいメモしとこうよ俺…

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玄界灘

白石一郎著。文藝春秋刊。

金達寿さんの同タイトルと間違えられて借りてきてしまったのですが、本は何でも最後まで読む主義なんで読みましたけど、おもしろくなかったです。

いずれも時代小説で短編集です。収録作品は「妖女譚」「鎖ざされた海」「魔笛」「玄界灘」「霧の中」「さいごの奉行」「シャムから来た男」「航海者」でした。
このうち、「玄界灘」だけ鎌倉時代(北条氏)が舞台で、「鎖ざされた海」「魔笛」「霧の中」「シャムから来た男」は江戸時代だけどどこら辺かわからず、「妖女譚」「さいごの奉行」は江戸時代末期、「航海者」は江戸時代初期でした。
ちゅうか、それを言ったら、何か時代小説としては半端な感じで、そこがまずおもしろくなかったです。

「妖女譚」は妻を失って無気力になった男が、幕府が派遣した海外に渡航する船に乗ることになり、到着した上海で妻の生まれ変わりと信ずる女性に会い、そのまま下船してしまった話でしたが、やたらにだらだら長い(と言ってもたかが40ページですが)上、「妖女」なんてほどの妖女でもなく、高杉晋作とかも乗船してたらしいけど、あんまり名前出す必要性なかったよね?

「鎖ざされた海」は行方不明になった廻船の乗組員が帰ってきたけど、前にも帰ってきた者がいて、その証言に矛盾が見つかり、実は彼らは皆、呂宋(ルソン)に流れついていて、現地に残った者たちもいたけど、何しろ日本人の海外への渡航を禁じていた鎖国時代のことなんで、帰った者たちも一生、閉じ込められて、彼らの出身地だった廻船業者の港町もさびれてしまったという話。これも真相が明かされるまでがだらだらって感じで、戻らなかった船乗りたちに感情移入する黒田藩の役人が一応、狂言回しになっているものの、誰が主人公とも言えない、だらだらした話でした。

「魔笛」は、都から落ちてきた公家の娘が猟師に嫁ぐことになり、その笛の力で獲物を呼び寄せたために猟師はいい腕前を誇るようになったけど、妻が亡くなった途端に鳴かず飛ばずになっちゃって、娘が笛の練習をして、さてと山に出かけたら、山の主と呼ばれる狼に襲われて、猟師は殺されちゃいました、な話。

で目当て違いだった「玄界灘」は、いわゆる元寇の時代の話で、乱暴者の男が蒙古軍と戦って撃退したけど、故郷は無惨に破壊され、惚れた女をさらわれたってんで蒙古軍を追いかける話。

「霧の中」は鎖国中の日本でただ1つ開港していた長崎に特有のお役目、遠見番(異国船の出入りを見はる)の名人と言われた男が抜け荷船が見えるとか見えないとか、心の眼で見るとか言う話。

「さいごの奉行」は長崎の最後の奉行となった河津伊豆守祐邦が長崎に赴任してから去るまでの話。一緒に洋行(パリまで行った)したという部下の大二郎という男がいちいち日本と西欧を比べて日本の貧弱さを嘆くのが卑しい。

「シャムから来た男」は清国の船に乗ってアユタヤから来た日本人の子孫が墓参りと、母の生まれ育った町を見たいといって、同席した遊女があれこれと手を回して願いをかなえさせてやろうとする話。

「航海者」は日本に初めて来たイギリス人、ウィリアム=アダムスこと三浦按針の話なんだけど、小説書いてんだか資料引用してんだか、内容がすごい中途半端でいちばんおもしろくなかったです。

お口直しに一緒に借りてきた「暴力の経験史」を読み始めたんですが、これ、何で読もうと思ったんだっけ?(爆

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周期律

プリーモ=レーヴィ著。竹山博英訳。工作舎刊。

サブタイトルは「元素追想」ですが、原本にあったものではないようで、訳者あるいは出版社が勝手におセンチにつけたんじゃないかと邪推します。
と言いますのも訳者の後書きで著者が自殺をしたことにこれっぽっちも触れられていなかったので、むしろ、最後の短編「炭素」の終わりから「今は亡きレーヴィの、そして我々自身の、未来に開かれた旅でもあるのだ」とか言っちゃってるのを読むと、他でもない自死という形で自らの生命に終わりを告げたレーヴィが、どうしてそんな開かれた未来など視てたろうかと思えるので、ホロコースト物に携わる日本人にはありがちな傾向ですが、ナチス・ドイツの犯した犯罪と地続きのところに我々日本人は立っているという自覚がこれっぽっちもないんじゃないかと思ったからなのでした。

プリーモ=レーヴィの元素にかこつけた短編集で、たいがいはエッセイに近いものですが、中には小説とかもあったりしましてバラエティに富んでました。
ただ、プリーモ=レーヴィが無縁ではなかったアフリカ諸国、ぶっちゃけ非白人種への差別感がけっこう露骨で、小説家としてのプリーモ=レーヴィへの興味は失せました。レイシストの本は読んでもおもろないから。
やっぱり、わしのなかではこの人はホロコースト、強制収容所からのサバイバーという前提があっての興味なんで、それ以外を書いたのは、たとえ無関係ではなくてもあんまり興味が湧きませんでした。まぁ、それを言い出したら、わしの大好きなアナキスト大杉栄も、けっこう朝鮮の人たちへの差別は露骨だったとどっかで見たんですが青空文庫収録の著作を全部読んだ限りではそういうことはなかったと思ったんですけど、見かけたら修正することになるかもしれません。

そういうわけで次は何を読もうか思案中。

たきがはが2週に1度、県立図書館に籠もっているのはついに「太白山脈」の人物索引を作り始めたからです。1冊5時間もかかるので、やっと3巻終わったとこ… (´・ω・`)

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罪と罰の彼岸(新版)

ジャン=アメリー著。池内紀訳。みすず書房刊。

ホロコースト物続いてます。

サブタイトルは「打ち負かされた者の克服の試み」です。オーストリア出身で、最終的にベルゲン=ベルゼン強制収容所で解放された著者は、戦後はベルギーに住み、ドイツ語で発信し続けましたが1978年、ザルツブルグで自死しました。

この著作は1964年、フランクフルトで始まったアウシュヴィッツ裁判(映画「顔のないヒトラーたち」の扱ってる裁判)が始まった年から書かれたエッセイで、「はしがき」2つ(初版と新版)、「精神の限界」、「拷問」、「人はいくつ故里を必要とするのか」、「ルサンチマン」、「ユダヤ人であることの強制、ならびにその不可能性について」のパートに分かれています。

失礼ながら「はしがき(新版)」読んでて思ったのは、オーストリア系ユダヤ人である著者の意識が及ぶ範囲というのはせいぜいがベトナム止まりで、その先の中国や朝鮮半島、日本といった極東には届かないのだなということでした。なのでナチス・ドイツにも匹敵する日本がなした数々の戦争犯罪は比較のためにも言及されません。
あと、この前に読んだ「新版プリーモ・レーヴィへの旅」でプリーモ=レーヴィがなにげに示してしまった「野蛮なピグミー」という差別意識を著者が言及してましたが、わしがこの2つの文を読んで思うのは、欧米人は割と極東には無関心なんじゃないかなということです。なのでニッポンの犯罪には追求がナチスほど厳しくない。
もっとも、その欧米でもヒロヒトが日本最大の戦犯でありながら裁かれなかったというのは忘れられなかったらしく、ヒロヒトの訪問にはかなり反対デモとか巻き起こったはずでしたが、その後のアキヒトになるときれいに忘れられているのは、だいぶ関心が薄いんだろおらな感じです。

ただ、この分析はまったく的外れで、もしかしたら徐京植さんが言うように欧米人と日本人といういわゆる植民地の宗主国同士が持つ国民主義というやつのせいで、日本人に対しては共犯意識みたいのがあって日本がなした戦争犯罪への追求はナチスほど厳しくないだけかもしれませんが、朝鮮半島や台湾ならば元植民地とも言えるけど、中国はどうなんだよと思ったけど、中国は欧米列強がいいようにしてた時期があるんで、これも共犯者意識なのかもしれません。

あと、時代が1970年代と古いせいか、著者はイスラエルを全面的に庇っているのですが、プリーモ=レーヴィはイスラエルのなしたホロコーストに近い犯罪には批判的だったことを思うと、まだイスラエルという国は故郷を失った特に東欧系のユダヤ人にとっては今度こそ約束された故郷と思えていたのかもしれないので、まぁ、そこは突っ込まないでおきます。わしもイスラエルが現在のようながちがちのシオニズム至上主義になったのかは詳しくないので(たぶん今のネタニヤフから?)。

ただ「ルサンチマン」のパートに入りますと、わしもいちいちナチス・ドイツを日本に読み替えちゃって、もう、著者の言い分には全面的に同意します。全然否定するつもりはありません。
特に「ドイツ人は自分たちこそ犠牲者だと考えていた(128ページ)」以降の段落は、まるっと「食糧の欠乏を耐えたわけだし、いたるところの町々に爆撃を受けたし、2つの原爆まで落とされた。戦勝国による東京裁判はもとより、ソ連による「満州」からの避難民襲撃まで甘受した」とか読んじゃった日には、まぁ、しょうがないのです。
というか、わしは別に「ただ涙を流すのではなく “分断する世界”とアウシュビッツ」以来じゃなく、その前からナチス・ドイツの行ったホロコーストと日本が行った南京大虐殺や「従軍慰安婦」はまるっと地続きのものだと考えているので、逆にホロコーストをまるで対岸の火事のように「ユダヤ人可哀想」とか「ナチスって酷い」とかぬかすような日本人はいっさい信用しません。あと「ナチス・ドイツのような」とか言って例える奴とか。ニッポン人にはニッポンという世界最低のお手本があるだろぉぉぉぉ!!!な気持ちです。ここで大日本帝国と日本を区別してないのは地続きで、別に生まれ変わったわけじゃないよねという意識の発露なんで指摘は無用のことよ。むしろ、肩書きが偉そうであればあるほど、そんなことぬかすような奴は歴史修正主義のレッテルを貼りつけます。
なんで、わしがホロコースト物を読むのは、大昔は単純に過去にあった酷いこと、悲惨なことへの興味でしたが、現在はそれと同じくらい、あるいはもっと強力に日本のなした犯罪を追求すべきであると思っているので、何かと日本が頭を過ぎっちゃうのも、ナチスの犯罪が日本の犯罪に置き換わるのも当然ちゃ当然の成り行きなのです。それはどっちも人類に犯した犯罪であることに変わりはないわけなので。
だから著者が「まわりでこぞって合唱される平和の叫びに同意できない。その声は意気揚々とこう言うのだ。うしろを振り返るな。前を見つめよう。愛にみちたすばらしい未来を!」と言うのは、差別される朝鮮の人たちに仲良くしようぜとどっかの馬鹿が言ったのと同じことです。
また著者が「最良の場合、同じことを二度と起こさないためにだろうが、私にはごめんである。私のルサンチマンは承知しない。犯罪者にみずからの犯罪に対するモラルの現実性を気づかせること、いや応なく自分の行為の真実に対面させること」と言うのにも全面的に同意します。なぜって、それこそ、今の日本では未だに行われていないことですから。
著者はさらに続けます。「社会のなかで自分の個性をすて、ただ機能とのみ化したい人々、すなわち鈍感な人であり無関心な人であるが、彼らはことごとに宥(ゆる)したがる。起こったことは起こったことであって、やむを得ないという」と。今の日本はこれより狭小です。なかったことにして水に流そうとさえしていない。そんなことは許されないのです。
そして極めつけ、「もし1943年に国民選挙があったとしたら、人々はこぞってヒトラーに投票したはずである。千に1つのまちがいもない」。ヒトラーを天皇に置き換えたら? 日本の愚かしさが見えてきませんか?
著者の告発は次の世代にも向けられます。戦後生まれの若者たちや、戦中は未成年だった若者たちです。日本の敗戦から74年目の今年、ますます当時を知る世代は亡くなり、もはや日本だろうがドイツだろうが、どこの国だろうが、9割を越しているでしょう。そんな「戦争を知らない子どもたち」にまで責任を問うのかと言う声は日本でもドイツでも絶えることはありません。けれども著者は言います。「高飛車に罪のなさを主張してもらいたくないということだ。ドイツ人が若者も幼児もこぞって一切の歴史と縁切りにならないかぎり、そのかぎりはあの十二年に対する、そして今なお終わっていない歳月に対する責任がある」と。
またドイツも日本もそうですが、むしろヒトラーは自殺しましたが、のうのうと天寿を全うしたヒロヒトを抱えた日本のがずっと悪いと思いますが、「ドイツ人はおそらく次の世代にも及んで、自分たちみずからが卑劣な支配権力を打ち倒したわけではないことを忘れたりしないだろう」という著者の主張を読むと、その卑劣な支配権力の子孫をありがたがる日本人の愚かさは、もはやどんな自浄作用もこの国には働かないだろうと思わざるを得ません。そんな期待、するだけ無駄ってもんです。
そしてトーマス=マン(アメリカに亡命していたドイツ人作家)の言葉を引用しつつ、「(1933年から1945年にかけてドイツで出された本はすべて、なんらの価値ももたず、手にとるべきではないように思えるのです。血と汚辱の臭いがしみついています。すべて破棄されてしかるべきではないでしょうか)本にかぎらずこの12年間に生み出したすべて、それをドイツ国民が精神的に破棄するとき、否定の否定にひとしい。高度に建設的な、大いなる行為にあたる。このときようやく主観的にはルサンチマンがハタされ、客観的にはそれがもはや無用のものとなったわけだ」と述べますが、次の段落では「とてつもない夢想」と片づけてもいます。

その後の「ユダヤ人であることの強制〜」のパートは、ユダヤ人の歴史的な特殊性から日本での例には置き換えづらいのでそのまま読みましたが、気になったところが1ヶ所だけあったので引用しますと「歴史的な、また社会に根ざした精神現象としての反ユダヤ主義とユダヤ人問題は、私に関係することではないではないか。それはまったくもって反ユダヤ主義者の問題であり、彼らの恥辱、彼らの病いにほかならない。反ユダヤ主義者がみずから克服すべきことであり、私ではないのである」。これ、まるっきり日本人のことと読めますよね。

そんな感じで、ホロコースト物はもういいかなと思ってましたが、やはり得るものはなかなか多かったです。帰還者の言葉は重いです。

いつものように飯を食いながらでなく、洗濯とお茶しながら一気に読んだので感想も一気に書きました。引き続き、プリーモ=レーヴィの著者を読む予定です。

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