岩波新書。鎌田慧著。
元来たきがはは肉食好きなので、間違っても菜食なんてことは考えたこともなかったし、じゃあ肉は駄目で野菜を食べようが魚を食べようが、生き物食べてることに代わりはないわけで、「いただきます」という言葉には「命をいただきます」という意味さえこもってるのだと何かで読んで以来、菜食というのはそういう命のサイクルを、たまたまわしらと同じ動物だけに限って見たような視野の狭い意見なんじゃないかな〜と思ったりしていた。
でも、通勤の途中で豚さん積んだトラックを見た時に「あの豚たちが殺されるところを見てもそんなこと言えるのかな、それでも肉が食えるのならおれはやっぱり命をいただいて生きてます、と言ってもいいのかもしれないな」と思って、屠場というものを見学してみたくなったのだ。単純だね。
で、困った時のネットで検索してみたら、「カムイ外伝」とか読んだことのある人は知ってるかもしれないんだけど、屠場は昔は屠殺場と言われてて、被差別部落の人たちが仏教からやってくる「殺生戒」などからすごく差別されてたという歴史があるところなわけさ。だから、どうもたきがはのようにお気楽極楽に見学したいなぁ、なんてのはどうも受け入れていないらしく、お気軽に「見学させて」「どうぞ」というわけにもいかんようで、でも、知りたくなるとこだわるやつなもんで、「大杉榮 自由への疾走」というノンフィクション書いてる鎌田慧さんのルポがあったからせめて知識だけでも、と思って読んでみたわけ。前置き長い。
いまの時代、自分の仕事にプライドと誇りを持って働いている人ってどれだけいるのだろう? 「カムイ外伝」の被差別部落が頭を離れなかったたきがはは、屠場で働いている人たちの職人魂とプライドと誇りにすごく、素直に感動し、不当な差別と扱いに腹が立った。スーパーマーケットで「何グラム」で買ってしまえる肉。屠場ではプライドと誇りをかけて、職人技で「自分たちが日本の食卓を支えている」という自負を持って働いている人たちが解体してくれる肉。
やっぱり肉食止めないで、いままで以上に「命をいただきます」「素晴らしい仕事をありがとう」という気持ちでいただこうと思ったよ。
「肉も魚もコメも輸入すればすむ、との考えが強まっている。酪農や牛や豚の飼育、コメづくり、漁業もそうだが、後継者がいないのは、若いひとたちに希望が与えられていないからである。食糧を生産するひとたちから希望が奪われているとしたら、日本人はどんな夢を食べるのだろうか」(本文より)
人も魚も猫も米も含めた、命と命のもやいを大事にする水俣とは何という違いだろう。
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