徐京植著。晃洋書房刊。
「
植民地主義の暴力」を書いた徐京植さんが格別にこだわるプリーモ=レーヴィの生家と墓を訊ねてトリノを旅した時の記録が中心のエッセイです。サブタイトルは「アウシュヴィッツは終わるのか?」は、プリーモ=レーヴィの最初の本の日本語版タイトル「アウシュヴィッツは終わらない」に引っかけてありますが、著者が懸念しているように、わしもアウシュヴィッツは終わらないと思いました。
前の本がそうだったように、著者の思いはプリーモ=レーヴィを通して植民地時代の名残、鬼子として残された在日朝鮮人としての自分、分断された祖国に向かいます。そして、現在の世界がアウシュヴィッツを生み出したのと同じような方向性を持っていることを懸念し続けています。
また作中の「ドイツ人(総体としてではなく、ナチスの責任から逃れようとする一般的なドイツ人)」とか「ドイツ(同上)」が、全て「日本人」もしくは「日本」に置き換えても違和感がないのは、今に始まったことでもありませんが、暗澹たる気持ちにさせられますね。
それにしてもプリーモ=レーヴィの性格、「すぐに言い返す能力がなく、つい相手の話を信じてしまいそうになり、怒りや正しい判断は部屋を出た後、もう役に立たない時に戻ってくるのだ」を読んだ時は、まるでわしのことが言われているのかと思いました。そうなんだよ後から思いつくのよ、気の利いた台詞なんてのは。ああ言えば良かったのになぁ!と思うことが人生で数え切れないほどあるわしには、プリーモ=レーヴィは失礼ながら、とても他人とは思えません。
そういや明日は沖縄は慰霊の日ですが、これは単に最高責任者の牛島満が自害した日というだけで、実際の戦闘は続いていたし、犠牲者も出ていたことを思うと、何を慰霊したいのか疑わしくなります。
また沖縄のみならず、別に今に始まったことでもありませんが右翼の街宣車がかまびすしいこの頃、日本が同じ過ちを繰り返すのはそう遠い日ではないと思うのは、わしだけではありますまい。
あとタイトルに「新版」とついているのは初版に対してつけ加えた分が40ページほどあるからなんですが(発行した場所も違うし)、「新版」を名乗るには少々力不足で、「旧版」に追記という形で良かったんじゃないかなと思いました。
引き続き、徐京植さんの著書を読み進めるつもりです。
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