徐京植著。高文研刊。
著者の評論集です。サブタイトルは「ことばの檻」からとなってますが、パート2のタイトルでもあり、パート1が本タイトルと同じ「植民地主義の暴力」、パート3が「記憶の闘い」です。
例によってタイトルだけメモしておいたんですけど、目から鱗はぼろぼろ落ちるわ、かつて読んだ「
罪と死と愛と」や、最近読んだり見たりした尹東柱(ユン=ドンジュ)さんの詩とか
映画とか、映画見ただけの「遥かなる帰郷」(プリーモ=レーヴィ原作)と来て、最後はわしが尊敬するホーおじさん(ベトナム独立の父ホー・チ・ミン)まで話題にのぼるに至っては著者への親近感というも失礼(後述)なので興味が勝手に湧いてきまくったので、この方の著書を読破しようと思いました。あと、1回やってやめたんですけど、派生して言及あるいは引用された本を芋づる式に読むというのもまたやってみようと思いましたが、そういや青空文庫に魯迅って入っていたっけ… 途切れ途切れに読んでる「大菩薩峠」がまだ終わらんのじゃが…
と思ってぐぐってみたら、魯迅、けっこう入ってますね。今度、ダウンロードしとこう。
おかげで
この前の本から始めた、後で読み返したいところにとりあえず付箋を貼るという行為が20枚くらいになりまして、久しぶりに良い本に巡り会えたなぁと思います。前の本が悪かったわけでは全然ないのですが。
ところで、わしが上で「著者への親近感というのも失礼」と言うのは、著者が在日朝鮮人の方であるからにほかなりません。わしは少なくとも3世代前(ひいじいちゃん)まで遡ったところ、日本人であることがはっきりしており、母国に住み、母語=国語のマジョリティであるので、在日朝鮮人の方々が味わわされている苦労や、「自分は何者か」という問いとはまったく無縁だからです。そんなわしに親近感なんて覚えられても、と思うだろうと思うのです。
なんてことを書くと、そこまでマイノリティに遠慮することはないだろうという声が聞こえそうですが、逆だと思うんですよ。日本というマイノリティに厳しすぎる社会ではマイノリティにいくら気を遣っても遣いすぎることはないように思います。国から社会から、人としての当然の権利さえ踏みにじられている人たちにマジョリティであるわしができるという以前のことなんじゃないかなぁと思います。
で本の内容に戻りますが、初っぱなの小松川事件への著者の思いから、もうマジョリティたるわしの感想とはかけ離れておりまして、何というか、わしが日本が引き起こした大戦とそれに付属する数々の事件とか朝鮮半島や台湾の植民地化とかそういったことへ真っ先に感じる申し訳なさが立ちました。
続いて先ほど、自サイトにも追加しときましたが魯迅の言葉から、著者の関心は「和解という名の暴力」へ移っていきます。
まず日本だけでなく、いわゆる先進諸国と呼ばれる主に欧米諸国で共有される「国民主義』への解説が入りまして、わしなんぞは「良心的な日本人」の多くがこれだよと思ってすとんと腑に落ちました。
これは「旧植民地の宗主国のマジョリティが無自覚のうちに持つ「自国民中心主義」」を指し、英語では国家主義と同じくナショナリズムですが、一般的なナショナリズムが排他的なのに対し、当事者は自分自身をナショナリストとは考えておらず、むしろナショナリズムに反対する普遍主義者であると主張することが多いと。その一方で自分たちが享受している諸権利が、本来なら万人に保証される基本権であるにもかかわらず、国民であることを条件に保証される特権となっていることをなかなか認めようとしないと。
そう考えるとフランスの黄色いベスト運動なんかもこれに類するんでしょうね。あれ、移民や難民の人たちの参加って聞いてないし、あくまでもフランス人の労働者の話ですもんね。
さらに著者が言うには国民主義者は自らの特権には無自覚であり、その特権の歴史的由来には目をふさごうとする傾向を持つ。したがって国民主義者は非国民の無権利状態や自国による植民地支配の歴史的責任という問題については鈍感であるか、意図的に冷淡であると。
しかも日本の場合、第二次世界大戦における敗北は圧倒的な物量を誇るアメリカへの敗北だと考え、中国や朝鮮といった侵略された諸民族に対する敗北という意識はほとんどありません。なので自国が行った戦争が不当かつ違法な侵略戦争であったという認識と反省を深めるできないというのは見事な洞察と言うほかはありますまい。
そう考えると先日読んだ「
法廷で裁かれる日本の戦争責任」において日本の戦争責任の被害者の方々が敗北した理由もわかろうというものです。そのメカニズムを理解はしませんが。単に日本が上から下まで戦争責任をできるだけ矮小化しようとしているくそったれな国だという認識は動きませんし。
あと、よく聞く「先の世代が犯した罪の責任を後の世代である自分たちに問われることへの反発」は一般的な日本人がよく持っている戦争責任感じゃないかと思うんですけど、それも欧米諸国にも共通するもんだそうです。主に植民地についてですが。
そういう視点に立ってみると、先日見た「
ヒューマン・フロー/大地漂流」が受ける理由もわかるんです。まぁ、わしも突っ込んだけど。つまり、あの映画ではそもそも難民を作り出すことになった国家への欧米諸国の援助を描かないし、追求もしてない。ああ、そりゃ受けるわねと。しかも中国人で、現政権に批判的と言ったら、いかにも欧米人が好みそうなタイプじゃないですか。でも、今思い出したんですが、中国って、歴史的に植民地持ってなかったよなぁと。まぁ、植民地自体が近代の産物なのでその時代を経なかった中国には持ちようがなかったのかもしれませんが、中国は領土は拡大して、過去にベトナムぐらいまで版図を広げたこともあったけど、わしが知ってる限りではわりと外国人だろうと中国に忠誠を誓う限り、扱いは平等だったように記憶してます。まぁ、中国の歴代王朝がしたような方法を現在の中華人民共和国が採用する保証はありませんが、それは帝国主義的な植民地とは正反対の仕打ちだったんじゃないかなぁと思いました。
そういや4月に上野千鶴子が東大の入学式で行った演説が良かったの何のとTLに流れてきてましたけど、朴裕河擁護したような奴の話、いまさら評価に値するものとも思えませんけどネ。
20年くらい前に「遥かなる帰郷」を見て以来、すっかり忘却の彼方に吹っ飛ばしていたプリーモ=レーヴィへの興味を再燃させてくれたことには著者にお礼を言いたいと思います。例によってホロコーストものということで映画を見に行った(確かBox東中野)んですが、主役の俳優さんの虚空を見つめているような表情は覚えていても(パンフまで買ったから)、それ以上、プリーモ=レーヴィへの興味は湧かずに切れてしまったのは、図書館で本を読むという習慣が身についておらず、自分で本を買うには他のこと(たぶんゲームと同人誌)に金をつぎ込んでいたので確か1冊くらいは読んだと思うんですけど、それきり忘れました。最近は
エリ=ヴィーゼルの著作を読んで、そろそろホロコーストものは追いかけるのをやめようかと思ってたくらいだったのですが、それはプリーモ=レーヴィも批判していた、かつてユダヤ人にナチスが行ったことを今のイスラエルがパレスチナの人びとに行っているのではないかという理由もありますし、日本の戦争責任とか、その他もろもろを追いかけ始めたのでホロコーストまで手が廻らなくなったというのもあります。確かに日本で手に入るホロコースト関連の資料は破格に多いんですけど、わしとして決してナチス・ドイツが行った酷い戦争犯罪という対岸の火事として見てたつもりはないです。特に最近は。
こういうレビューも書きましたし、ナチス・ドイツの同盟国であった日本が行った戦争犯罪というベクトルで見るようにはしてるつもりですが、まぁ、本はともかく、映画はそろそろいいかなぁというのが本音です。
ただ、ホロコーストといったら、「夜と霧」のヴィクトル=フランクル先生が言った「最もよき人びとは帰っては来なかった」のは常に頭にありますので、プリーモ=レーヴィが純然たるホロコーストの被害者でありながら、自己の加害者の部分に目を向けるという論考は肯けるところがありますし、著者がそこから導き出した「そのシステムを作り上げ、運用した加害当事者(プリーモ=レーヴィの場合はナチス・ドイツ)を赦すためではない」という結論もまた、そこまで進まなければいけないんだと思わせられました。
どの評論を読んでも著者の意識は最後には巡り巡って在日朝鮮人である自分に返っていきます。それは、わしが何を見ても日本という国に結びつけるのと似てるような気もしますし、根本的にまったく違うようにも思えます。
ただ、一人のみならぬ大勢の人びとの一生をこのように歪めてしまった国家の一員として、わしはやっぱり日本という国の犯した過ちをまだまだ追求しなければならないように思えるのです。
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