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されど平穏な日々

日々のつぶやきと読んだ本と見た映像について気まぐれに語るブログ。Web拍手のメッセージへのレスもここ。「Gガンダム」と「ジャイアントロボ」への熱い語りはオタク度Maxにつき、取り扱い注意! 諸事情により、コメントは管理人が操作しないと反映されません。時々、サイトの更新情報など。

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14回忌

今年もこの日が巡ってきました。

1日中、自由だった昨年と違い、今年は仕事をしていたので、だいぶ、まいたんの妄想に助けられながら1日を過ごしました。

まいたんが亡くなった日の天気は覚えていないのです。ずっとうつむいていて空なんか見上げる余裕もなかった。でもお腹だけは空くのだなぁと、たぶん、インスタントラーメンか外食でご飯を済ましたような気がします。

まだまだ、まいたんのことを思いながら、いよいよ沖縄の夏が始まろうとしている14回目の6月28日です。

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グァバ・サワードリンクを作ったよ

道の駅・豊崎で売ってたグァバ(白)を1kg買いまして、サワードリンクを作ってみることにしました。暑い夏には酸味が必要なのさ。おかげでか、夏ばて知らずです。

それに昨年はパッションフルーツ、スナックパイン、スターフルーツでサワードリンクを作ってみたし、レモンのシロップとゆず茶も作ったので、今年は違うので作りたかったのです。1回作ると1ヶ月以上飲んでますので。シークワーサーの水割りも美味いんですけど、せっかく沖縄に住んでいるので、いろいろなフルーツで試してみたいのでした。ただ、マンゴーとライチは、ちょっともったいなくてなかなか作れそうにありませんが。まぁ、そのうちに。あと今年はドラゴンフルーツで作ってみようと思ってるんですけど、なかなか都合のいいのが手に入らないのでどうなりますか。試しに買ってみたジャムは、予想以上に淡泊な味で、見た目の派手さに完全に負けてました。ショッキングピンクに黒い種が入っているので、もっと派手な味を想像してたんですけど意外… (´・ω・`)

で、グァバです。

ネットで検索してみたら、まず皮を剥いて、1日ほど乾燥させるとありまして、皮を剥き始めたところ、皮を剥く前のも記録しておこうと思って撮ったのがこちら。残り3個はもう皮を剥かれてます。1個だけ完熟してる箇所がありましたが、わりとわし好みの香りだったので、きっと美味しいサワードリンクができるでしょう。



ちなみにグァバはフトモモ科の果実です。誰だそんな名前つけた奴。グァバというのは英名で、和名だとバンジロウ、もしくはバンザクロというそうです。その名のとおり、ザクロが又従姉妹ぐらい。沖縄ではバンシルー。

1晩乾燥させたら、2つは皺が寄ってましたが、熟れてた2個はだいぶメロメロになってまして、その感触が洋なしっぽい感じがしました。洋なしはバラ科だからグァバから言ったら、ほとんど赤の他人なんですけど。

んで、硝子瓶にそのまま入れるには買ってきたのが大きすぎたのでグァバを適当に切り、ここで氷砂糖も隙間に詰めてやれば1回で終わったものを面倒がって(手がグァバまみれだったため)後回しにしたら、氷砂糖が入る隙間がなかったので(グァバの形を崩してまで押し込むのも忍びなかったので (´・ω・`))酢だけ入れて、後は氷砂糖が融けるのを待って、順次投入することにしました。

それまでは先日、辺野古に行った時に、わんさか大浦パークで買ってきた赤ジソ・サワードリンクを飲むのですよ。

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罪と罰の彼岸(新版)

ジャン=アメリー著。池内紀訳。みすず書房刊。

ホロコースト物続いてます。

サブタイトルは「打ち負かされた者の克服の試み」です。オーストリア出身で、最終的にベルゲン=ベルゼン強制収容所で解放された著者は、戦後はベルギーに住み、ドイツ語で発信し続けましたが1978年、ザルツブルグで自死しました。

この著作は1964年、フランクフルトで始まったアウシュヴィッツ裁判(映画「顔のないヒトラーたち」の扱ってる裁判)が始まった年から書かれたエッセイで、「はしがき」2つ(初版と新版)、「精神の限界」、「拷問」、「人はいくつ故里を必要とするのか」、「ルサンチマン」、「ユダヤ人であることの強制、ならびにその不可能性について」のパートに分かれています。

失礼ながら「はしがき(新版)」読んでて思ったのは、オーストリア系ユダヤ人である著者の意識が及ぶ範囲というのはせいぜいがベトナム止まりで、その先の中国や朝鮮半島、日本といった極東には届かないのだなということでした。なのでナチス・ドイツにも匹敵する日本がなした数々の戦争犯罪は比較のためにも言及されません。
あと、この前に読んだ「新版プリーモ・レーヴィへの旅」でプリーモ=レーヴィがなにげに示してしまった「野蛮なピグミー」という差別意識を著者が言及してましたが、わしがこの2つの文を読んで思うのは、欧米人は割と極東には無関心なんじゃないかなということです。なのでニッポンの犯罪には追求がナチスほど厳しくない。
もっとも、その欧米でもヒロヒトが日本最大の戦犯でありながら裁かれなかったというのは忘れられなかったらしく、ヒロヒトの訪問にはかなり反対デモとか巻き起こったはずでしたが、その後のアキヒトになるときれいに忘れられているのは、だいぶ関心が薄いんだろおらな感じです。

ただ、この分析はまったく的外れで、もしかしたら徐京植さんが言うように欧米人と日本人といういわゆる植民地の宗主国同士が持つ国民主義というやつのせいで、日本人に対しては共犯意識みたいのがあって日本がなした戦争犯罪への追求はナチスほど厳しくないだけかもしれませんが、朝鮮半島や台湾ならば元植民地とも言えるけど、中国はどうなんだよと思ったけど、中国は欧米列強がいいようにしてた時期があるんで、これも共犯者意識なのかもしれません。

あと、時代が1970年代と古いせいか、著者はイスラエルを全面的に庇っているのですが、プリーモ=レーヴィはイスラエルのなしたホロコーストに近い犯罪には批判的だったことを思うと、まだイスラエルという国は故郷を失った特に東欧系のユダヤ人にとっては今度こそ約束された故郷と思えていたのかもしれないので、まぁ、そこは突っ込まないでおきます。わしもイスラエルが現在のようながちがちのシオニズム至上主義になったのかは詳しくないので(たぶん今のネタニヤフから?)。

ただ「ルサンチマン」のパートに入りますと、わしもいちいちナチス・ドイツを日本に読み替えちゃって、もう、著者の言い分には全面的に同意します。全然否定するつもりはありません。
特に「ドイツ人は自分たちこそ犠牲者だと考えていた(128ページ)」以降の段落は、まるっと「食糧の欠乏を耐えたわけだし、いたるところの町々に爆撃を受けたし、2つの原爆まで落とされた。戦勝国による東京裁判はもとより、ソ連による「満州」からの避難民襲撃まで甘受した」とか読んじゃった日には、まぁ、しょうがないのです。
というか、わしは別に「ただ涙を流すのではなく “分断する世界”とアウシュビッツ」以来じゃなく、その前からナチス・ドイツの行ったホロコーストと日本が行った南京大虐殺や「従軍慰安婦」はまるっと地続きのものだと考えているので、逆にホロコーストをまるで対岸の火事のように「ユダヤ人可哀想」とか「ナチスって酷い」とかぬかすような日本人はいっさい信用しません。あと「ナチス・ドイツのような」とか言って例える奴とか。ニッポン人にはニッポンという世界最低のお手本があるだろぉぉぉぉ!!!な気持ちです。ここで大日本帝国と日本を区別してないのは地続きで、別に生まれ変わったわけじゃないよねという意識の発露なんで指摘は無用のことよ。むしろ、肩書きが偉そうであればあるほど、そんなことぬかすような奴は歴史修正主義のレッテルを貼りつけます。
なんで、わしがホロコースト物を読むのは、大昔は単純に過去にあった酷いこと、悲惨なことへの興味でしたが、現在はそれと同じくらい、あるいはもっと強力に日本のなした犯罪を追求すべきであると思っているので、何かと日本が頭を過ぎっちゃうのも、ナチスの犯罪が日本の犯罪に置き換わるのも当然ちゃ当然の成り行きなのです。それはどっちも人類に犯した犯罪であることに変わりはないわけなので。
だから著者が「まわりでこぞって合唱される平和の叫びに同意できない。その声は意気揚々とこう言うのだ。うしろを振り返るな。前を見つめよう。愛にみちたすばらしい未来を!」と言うのは、差別される朝鮮の人たちに仲良くしようぜとどっかの馬鹿が言ったのと同じことです。
また著者が「最良の場合、同じことを二度と起こさないためにだろうが、私にはごめんである。私のルサンチマンは承知しない。犯罪者にみずからの犯罪に対するモラルの現実性を気づかせること、いや応なく自分の行為の真実に対面させること」と言うのにも全面的に同意します。なぜって、それこそ、今の日本では未だに行われていないことですから。
著者はさらに続けます。「社会のなかで自分の個性をすて、ただ機能とのみ化したい人々、すなわち鈍感な人であり無関心な人であるが、彼らはことごとに宥(ゆる)したがる。起こったことは起こったことであって、やむを得ないという」と。今の日本はこれより狭小です。なかったことにして水に流そうとさえしていない。そんなことは許されないのです。
そして極めつけ、「もし1943年に国民選挙があったとしたら、人々はこぞってヒトラーに投票したはずである。千に1つのまちがいもない」。ヒトラーを天皇に置き換えたら? 日本の愚かしさが見えてきませんか?
著者の告発は次の世代にも向けられます。戦後生まれの若者たちや、戦中は未成年だった若者たちです。日本の敗戦から74年目の今年、ますます当時を知る世代は亡くなり、もはや日本だろうがドイツだろうが、どこの国だろうが、9割を越しているでしょう。そんな「戦争を知らない子どもたち」にまで責任を問うのかと言う声は日本でもドイツでも絶えることはありません。けれども著者は言います。「高飛車に罪のなさを主張してもらいたくないということだ。ドイツ人が若者も幼児もこぞって一切の歴史と縁切りにならないかぎり、そのかぎりはあの十二年に対する、そして今なお終わっていない歳月に対する責任がある」と。
またドイツも日本もそうですが、むしろヒトラーは自殺しましたが、のうのうと天寿を全うしたヒロヒトを抱えた日本のがずっと悪いと思いますが、「ドイツ人はおそらく次の世代にも及んで、自分たちみずからが卑劣な支配権力を打ち倒したわけではないことを忘れたりしないだろう」という著者の主張を読むと、その卑劣な支配権力の子孫をありがたがる日本人の愚かさは、もはやどんな自浄作用もこの国には働かないだろうと思わざるを得ません。そんな期待、するだけ無駄ってもんです。
そしてトーマス=マン(アメリカに亡命していたドイツ人作家)の言葉を引用しつつ、「(1933年から1945年にかけてドイツで出された本はすべて、なんらの価値ももたず、手にとるべきではないように思えるのです。血と汚辱の臭いがしみついています。すべて破棄されてしかるべきではないでしょうか)本にかぎらずこの12年間に生み出したすべて、それをドイツ国民が精神的に破棄するとき、否定の否定にひとしい。高度に建設的な、大いなる行為にあたる。このときようやく主観的にはルサンチマンがハタされ、客観的にはそれがもはや無用のものとなったわけだ」と述べますが、次の段落では「とてつもない夢想」と片づけてもいます。

その後の「ユダヤ人であることの強制〜」のパートは、ユダヤ人の歴史的な特殊性から日本での例には置き換えづらいのでそのまま読みましたが、気になったところが1ヶ所だけあったので引用しますと「歴史的な、また社会に根ざした精神現象としての反ユダヤ主義とユダヤ人問題は、私に関係することではないではないか。それはまったくもって反ユダヤ主義者の問題であり、彼らの恥辱、彼らの病いにほかならない。反ユダヤ主義者がみずから克服すべきことであり、私ではないのである」。これ、まるっきり日本人のことと読めますよね。

そんな感じで、ホロコースト物はもういいかなと思ってましたが、やはり得るものはなかなか多かったです。帰還者の言葉は重いです。

いつものように飯を食いながらでなく、洗濯とお茶しながら一気に読んだので感想も一気に書きました。引き続き、プリーモ=レーヴィの著者を読む予定です。

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新版プリーモ・レーヴィへの旅

徐京植著。晃洋書房刊。

植民地主義の暴力」を書いた徐京植さんが格別にこだわるプリーモ=レーヴィの生家と墓を訊ねてトリノを旅した時の記録が中心のエッセイです。サブタイトルは「アウシュヴィッツは終わるのか?」は、プリーモ=レーヴィの最初の本の日本語版タイトル「アウシュヴィッツは終わらない」に引っかけてありますが、著者が懸念しているように、わしもアウシュヴィッツは終わらないと思いました。

前の本がそうだったように、著者の思いはプリーモ=レーヴィを通して植民地時代の名残、鬼子として残された在日朝鮮人としての自分、分断された祖国に向かいます。そして、現在の世界がアウシュヴィッツを生み出したのと同じような方向性を持っていることを懸念し続けています。

また作中の「ドイツ人(総体としてではなく、ナチスの責任から逃れようとする一般的なドイツ人)」とか「ドイツ(同上)」が、全て「日本人」もしくは「日本」に置き換えても違和感がないのは、今に始まったことでもありませんが、暗澹たる気持ちにさせられますね。

それにしてもプリーモ=レーヴィの性格、「すぐに言い返す能力がなく、つい相手の話を信じてしまいそうになり、怒りや正しい判断は部屋を出た後、もう役に立たない時に戻ってくるのだ」を読んだ時は、まるでわしのことが言われているのかと思いました。そうなんだよ後から思いつくのよ、気の利いた台詞なんてのは。ああ言えば良かったのになぁ!と思うことが人生で数え切れないほどあるわしには、プリーモ=レーヴィは失礼ながら、とても他人とは思えません。

そういや明日は沖縄は慰霊の日ですが、これは単に最高責任者の牛島満が自害した日というだけで、実際の戦闘は続いていたし、犠牲者も出ていたことを思うと、何を慰霊したいのか疑わしくなります。
また沖縄のみならず、別に今に始まったことでもありませんが右翼の街宣車がかまびすしいこの頃、日本が同じ過ちを繰り返すのはそう遠い日ではないと思うのは、わしだけではありますまい。

あとタイトルに「新版」とついているのは初版に対してつけ加えた分が40ページほどあるからなんですが(発行した場所も違うし)、「新版」を名乗るには少々力不足で、「旧版」に追記という形で良かったんじゃないかなと思いました。

引き続き、徐京植さんの著書を読み進めるつもりです。

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植民地主義の暴力

徐京植著。高文研刊。

著者の評論集です。サブタイトルは「ことばの檻」からとなってますが、パート2のタイトルでもあり、パート1が本タイトルと同じ「植民地主義の暴力」、パート3が「記憶の闘い」です。

例によってタイトルだけメモしておいたんですけど、目から鱗はぼろぼろ落ちるわ、かつて読んだ「罪と死と愛と」や、最近読んだり見たりした尹東柱(ユン=ドンジュ)さんの詩とか映画とか、映画見ただけの「遥かなる帰郷」(プリーモ=レーヴィ原作)と来て、最後はわしが尊敬するホーおじさん(ベトナム独立の父ホー・チ・ミン)まで話題にのぼるに至っては著者への親近感というも失礼(後述)なので興味が勝手に湧いてきまくったので、この方の著書を読破しようと思いました。あと、1回やってやめたんですけど、派生して言及あるいは引用された本を芋づる式に読むというのもまたやってみようと思いましたが、そういや青空文庫に魯迅って入っていたっけ… 途切れ途切れに読んでる「大菩薩峠」がまだ終わらんのじゃが…
と思ってぐぐってみたら、魯迅、けっこう入ってますね。今度、ダウンロードしとこう。

おかげでこの前の本から始めた、後で読み返したいところにとりあえず付箋を貼るという行為が20枚くらいになりまして、久しぶりに良い本に巡り会えたなぁと思います。前の本が悪かったわけでは全然ないのですが。

ところで、わしが上で「著者への親近感というのも失礼」と言うのは、著者が在日朝鮮人の方であるからにほかなりません。わしは少なくとも3世代前(ひいじいちゃん)まで遡ったところ、日本人であることがはっきりしており、母国に住み、母語=国語のマジョリティであるので、在日朝鮮人の方々が味わわされている苦労や、「自分は何者か」という問いとはまったく無縁だからです。そんなわしに親近感なんて覚えられても、と思うだろうと思うのです。
なんてことを書くと、そこまでマイノリティに遠慮することはないだろうという声が聞こえそうですが、逆だと思うんですよ。日本というマイノリティに厳しすぎる社会ではマイノリティにいくら気を遣っても遣いすぎることはないように思います。国から社会から、人としての当然の権利さえ踏みにじられている人たちにマジョリティであるわしができるという以前のことなんじゃないかなぁと思います。

で本の内容に戻りますが、初っぱなの小松川事件への著者の思いから、もうマジョリティたるわしの感想とはかけ離れておりまして、何というか、わしが日本が引き起こした大戦とそれに付属する数々の事件とか朝鮮半島や台湾の植民地化とかそういったことへ真っ先に感じる申し訳なさが立ちました。

続いて先ほど、自サイトにも追加しときましたが魯迅の言葉から、著者の関心は「和解という名の暴力」へ移っていきます。
まず日本だけでなく、いわゆる先進諸国と呼ばれる主に欧米諸国で共有される「国民主義』への解説が入りまして、わしなんぞは「良心的な日本人」の多くがこれだよと思ってすとんと腑に落ちました。
これは「旧植民地の宗主国のマジョリティが無自覚のうちに持つ「自国民中心主義」」を指し、英語では国家主義と同じくナショナリズムですが、一般的なナショナリズムが排他的なのに対し、当事者は自分自身をナショナリストとは考えておらず、むしろナショナリズムに反対する普遍主義者であると主張することが多いと。その一方で自分たちが享受している諸権利が、本来なら万人に保証される基本権であるにもかかわらず、国民であることを条件に保証される特権となっていることをなかなか認めようとしないと。
そう考えるとフランスの黄色いベスト運動なんかもこれに類するんでしょうね。あれ、移民や難民の人たちの参加って聞いてないし、あくまでもフランス人の労働者の話ですもんね。
さらに著者が言うには国民主義者は自らの特権には無自覚であり、その特権の歴史的由来には目をふさごうとする傾向を持つ。したがって国民主義者は非国民の無権利状態や自国による植民地支配の歴史的責任という問題については鈍感であるか、意図的に冷淡であると。

しかも日本の場合、第二次世界大戦における敗北は圧倒的な物量を誇るアメリカへの敗北だと考え、中国や朝鮮といった侵略された諸民族に対する敗北という意識はほとんどありません。なので自国が行った戦争が不当かつ違法な侵略戦争であったという認識と反省を深めるできないというのは見事な洞察と言うほかはありますまい。
そう考えると先日読んだ「法廷で裁かれる日本の戦争責任」において日本の戦争責任の被害者の方々が敗北した理由もわかろうというものです。そのメカニズムを理解はしませんが。単に日本が上から下まで戦争責任をできるだけ矮小化しようとしているくそったれな国だという認識は動きませんし。

あと、よく聞く「先の世代が犯した罪の責任を後の世代である自分たちに問われることへの反発」は一般的な日本人がよく持っている戦争責任感じゃないかと思うんですけど、それも欧米諸国にも共通するもんだそうです。主に植民地についてですが。
そういう視点に立ってみると、先日見た「ヒューマン・フロー/大地漂流」が受ける理由もわかるんです。まぁ、わしも突っ込んだけど。つまり、あの映画ではそもそも難民を作り出すことになった国家への欧米諸国の援助を描かないし、追求もしてない。ああ、そりゃ受けるわねと。しかも中国人で、現政権に批判的と言ったら、いかにも欧米人が好みそうなタイプじゃないですか。でも、今思い出したんですが、中国って、歴史的に植民地持ってなかったよなぁと。まぁ、植民地自体が近代の産物なのでその時代を経なかった中国には持ちようがなかったのかもしれませんが、中国は領土は拡大して、過去にベトナムぐらいまで版図を広げたこともあったけど、わしが知ってる限りではわりと外国人だろうと中国に忠誠を誓う限り、扱いは平等だったように記憶してます。まぁ、中国の歴代王朝がしたような方法を現在の中華人民共和国が採用する保証はありませんが、それは帝国主義的な植民地とは正反対の仕打ちだったんじゃないかなぁと思いました。

そういや4月に上野千鶴子が東大の入学式で行った演説が良かったの何のとTLに流れてきてましたけど、朴裕河擁護したような奴の話、いまさら評価に値するものとも思えませんけどネ。

20年くらい前に「遥かなる帰郷」を見て以来、すっかり忘却の彼方に吹っ飛ばしていたプリーモ=レーヴィへの興味を再燃させてくれたことには著者にお礼を言いたいと思います。例によってホロコーストものということで映画を見に行った(確かBox東中野)んですが、主役の俳優さんの虚空を見つめているような表情は覚えていても(パンフまで買ったから)、それ以上、プリーモ=レーヴィへの興味は湧かずに切れてしまったのは、図書館で本を読むという習慣が身についておらず、自分で本を買うには他のこと(たぶんゲームと同人誌)に金をつぎ込んでいたので確か1冊くらいは読んだと思うんですけど、それきり忘れました。最近はエリ=ヴィーゼルの著作を読んで、そろそろホロコーストものは追いかけるのをやめようかと思ってたくらいだったのですが、それはプリーモ=レーヴィも批判していた、かつてユダヤ人にナチスが行ったことを今のイスラエルがパレスチナの人びとに行っているのではないかという理由もありますし、日本の戦争責任とか、その他もろもろを追いかけ始めたのでホロコーストまで手が廻らなくなったというのもあります。確かに日本で手に入るホロコースト関連の資料は破格に多いんですけど、わしとして決してナチス・ドイツが行った酷い戦争犯罪という対岸の火事として見てたつもりはないです。特に最近は。こういうレビューも書きましたし、ナチス・ドイツの同盟国であった日本が行った戦争犯罪というベクトルで見るようにはしてるつもりですが、まぁ、本はともかく、映画はそろそろいいかなぁというのが本音です。
ただ、ホロコーストといったら、「夜と霧」のヴィクトル=フランクル先生が言った「最もよき人びとは帰っては来なかった」のは常に頭にありますので、プリーモ=レーヴィが純然たるホロコーストの被害者でありながら、自己の加害者の部分に目を向けるという論考は肯けるところがありますし、著者がそこから導き出した「そのシステムを作り上げ、運用した加害当事者(プリーモ=レーヴィの場合はナチス・ドイツ)を赦すためではない」という結論もまた、そこまで進まなければいけないんだと思わせられました。

どの評論を読んでも著者の意識は最後には巡り巡って在日朝鮮人である自分に返っていきます。それは、わしが何を見ても日本という国に結びつけるのと似てるような気もしますし、根本的にまったく違うようにも思えます。
ただ、一人のみならぬ大勢の人びとの一生をこのように歪めてしまった国家の一員として、わしはやっぱり日本という国の犯した過ちをまだまだ追求しなければならないように思えるのです。

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