井伏鱒二著。昭和文学全集10。小学館刊。
戦争で負傷し、気が狂ってしまったために、今も戦争中だと思い込んでいる男の姿を描く。
遙拝というのは天皇のいた方向を拝むことかと思ってたら、広辞苑を調べたら単に「遙かに遠いところから拝むこと」と読んで字のごとしでした。
まぁ、南方の戦線から拝んでるんだから合ってるのか。
「山椒魚」もそうですが、全然救いのない話で、なにしろいまだに戦争中だと思っていて、村の人も部下だと思い込んでいるところもあって、いろいろと周囲とトラブルを起こすんですが、まぁ、同じ村の人なんかは同情半分もあるようで、そこはそれ、なぁなぁとまではいかないんだけど、丸く収まっちゃうんですな。それが救いと言えば救いか。
しかし、この主人公の場合は気違いですから戦争中だと思ってますが、「はだしのゲン」とか読んでると、戦後だというのに戦争中の意識丸出しのおっさんとか出てきたりするんで、そっちのがずっと怖いよね。
あと「731」関係の本を読んでいると、戦争中に上官だった奴って、戦後になってもずーっと威張りちらしてますよね。時代錯誤も甚だしいていうか、救いようのない馬鹿っていうか。
そう考えると、戦争で時間が止まってしまった気違いと、どっちがいいのかと思ってしまいますよ、わしは。
あと「山椒魚」も読んだんですが、これも救いのない話でした。というか、これは何かのたとえ話か? 原子力村=山椒魚、わしら=カエルという読み方をすると、ますます救いがなくなってきますよ。井伏鱒二、半端ねぇ…
「さざなみ軍記」は源平合戦の話。狂言回しは平家の若さまで、平知盛の息子らしいんですが、わしもそこの人物関係を完全に把握しているわけではないので、名前が出てきませんでした。その人の手記を現代語訳した、という体裁を取っています。
歴戦の強者ということで覚丹(かくたん)という僧兵と、宮地小太郎という老兵のおっさんが出てきて、いい味を出しておりますが、何か話が壇ノ浦まで行かないで途中で終わっちゃうのよね。わけわからん。
西方に落ち延びていく平家に対し、覚丹が義経に追われている時に、今のうちに迂回して都を攻めようとか言ってるのに、平家が消極的な策しか取らないとか、負けるべくして負けたのかな、という感じもあるんですが。
「屋根の上のサワン」はいちばん短い話で、傷ついた雁を拾って、サワンと名づけて、風切り羽根を切って飼っていたけど、ある日、サワンはほかの雁と一緒に飛んでいってしまいました、という話。
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