監督:チャン=イーモウ
原作:ゲリン=ヤン
出演:陸焉識(チェン=ダオミン)、馮婉玉(コン=リー)、丹丹(チャン=ホエウェン)、ほか
見たところ:川崎市アートセンター・アルテリオ・シネマ
中国、2014年
号泣必須のお涙頂戴物かと思っていたら、そこは中国が誇る名監督、そんなに安易な映画作りはしてきませんでした。随所で涙は誘われましたが、それだけでは終わらない名作でした。
文化大革命まっただ中の中国。娘の丹丹と2人で暮らす馮婉玉のもとに労働改造所に送られた夫の陸焉識が脱走したという報せが届く。10年以上も会っていない夫を迎えようとする馮婉玉だったがバレエ学校に通う娘は父親の罪状を理由に主役から下ろされており、父の行方を知らせれば主役がもらえるかもしれないという甘言に載ってしまう。駅で待つという陸焉識のメモを見て駆けつけた母と子だったが、その目前で陸焉識は捕えられてしまった。その後、文化大革命が終わり、陸焉識が戻ってくる。だが、20年ぶりに再会した馮婉玉は陸焉識当人を夫と認識できない。娘の手を借りながら、陸焉識は妻の記憶を取り戻そうとするが…。
切ない映画です。互いに愛し合っているのに妻は夫だけを認識できないわけですから。夫もただ手をこまねいてはいません。あの手この手で妻の記憶を蘇らせようと画策します。そのたびに涙を誘われるわけです。
まず手紙で「5日に着く」と娘に渡させて駅で再会しようとしますが、妻は夫に気づきません。これ、最後まで引っ張る伏線だったんですね。
さらに若い頃の二人で写っている写真を知り合いから譲ってもらい、娘に渡してもらいますが、なにしろ20年も前なもんで人相も変わっており、やっぱり妻は夫だとわかりません。
家には古いピアノがあります。妻は記憶障害を起こしているので、夫の正体を毎日見ても覚えません。夫は調律師になりすまして家に入り込み、ピアノを直します。妻が出かけたところを見計らって懐かしい曲を弾き始めますが、妻は夫だと気づきません。これはいい線まで行ったんですが…。
最後に夫の手紙が家に届きます。労働改造所で書いたものですが、送ることもできず、20年間も貯まってしまったのです。それは不自由なところで書かれたためもあり、字は乱れ、粗悪な紙だったり、紙いっぱいに書かれている物でした。読めない妻(その前に近所の親切なおじさんを装って荷物を家に運んであげているわけです。当然、一緒に住まわせてもらえないので、夫は向かいの家に住んでいるのです)に代わって手紙を音読してあげる夫。やがて夫は、手紙だけが妻と心を通わせる唯一の方法だと気づき、こっそりと手紙を混ぜます。
娘の密告を許せず、娘がバレエ学校を辞めたことも知らない妻に娘を許して、一緒に住むように言ったりします。
でも妻は思い出しません。最後まで夫のことを思い出せないまま、それでも夫がくれた手紙「5日に着く」に従って、毎月5日になると駅まで迎えに行きます。その隣りに寄り添う夫の姿。その姿は何年経っても変わることなく、映画はそこで終わります。
ハリウッドならば、最後に救いを持ってくるだろうなと思いました。
ただ、ちょっと文化大革命について調べるとわかるのですが、陸焉識が労働改造所に送られたのは実は文化大革命のせいではありません。その前の反右派闘争なのです。陸焉識は娘をバレエ学校に通わせたり、ピアノが弾けるような、西洋の文化も取り入れた生活をしていた人なので(しかも妻は高校の先生)、けっこうな知識人なのです。前職も大学教授らしいですし。
しかし、現在の中国ではまだ反右派闘争への批判はタブーとされており(文化大革命は四人組のせいにできるところがあるが、反右派闘争は毛沢東が主導したので)、それで陸焉識の「罪状」は曖昧にされているようなのでした。
そういう面もあって、妻の記憶が戻りましためでたしめでたし、という結末には至らなかったのかなという気がします。
でも、隣には誰よりもいたわってくれる人がいて、妻はやっぱり幸せなのか、でも相変わらず別居状態にあるので、やっぱり不幸せなのか。そこで終わらせてしまわなかったのがチャン=イーモウ監督の凄いところなんだろうなぁと思いました。
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