黄晳暎(ファン=ソギョン)著。鄭敬謨(チョン=ギョンモ)訳。岩波書店刊。
朝鮮戦争の最中にあった信川(シンチョン)での虐殺を背景に、実在のキリスト教の牧師の兄弟を主人公に据えて同族殺しを語る話といいましょうか。「
満月」でも死者の言葉を巫儀(クッ)によって語らせるという儀式がありましたが、朝鮮の社会では生者と死者の境界が他の社会よりも低そうな感じがしました。日本にもイタコとかありますけど、ここまで死者は生者に近くないかなぁと。
アメリカに亡命した柳(ユ)ヨハネとヨセフの兄弟は親族を現在の朝鮮民主主義人民共和国・黄海道(ファンヘド)の信川に残していた。ある日、ヨハネを訪ねたヨセフは40年ぶりに故郷を訪ねることを兄に打ち明けるが、それから数日後、兄は急死してしまう。兄の遺骨を携えて平壌を訪れたヨセフは、アメリカにいた時からつきまとう亡霊とともに故郷に案内され、亡くなったと思っていた兄嫁や甥と再会する…。
というわけで亡霊の解説を受けながら故郷の村々を巡り、40年前の虐殺を知るヨセフでした。現実にはこういう形での和解というのはあり得ないわけでして、独特の文体なんですが、ある意味、お手軽だなぁとも感じてしまいました。人と人が100%わかり合えるはずがないというのは文学の永遠のテーマだと思うんですが、亡霊になったから恨みもなし、事情を話して、許し合って、一緒に成仏というのは、あるいはそうできないからこそ、そうなることを願って書かれた小説なのかもしれません。
現に共和国の人と付き合ったりするだけで韓国では有罪になってしまうので…。
タイトルの「客人」とは天然痘を指します。1000年ほど鎖国に近い形で続いてきた朝鮮という国に、西洋文明の波が押し寄せて、それは進んだ文明とともキリスト教や天然痘といったものももたらしたのでした。天然痘になすすべのなかった朝鮮の人びとは、助かってもあばた面という業病に対し、「客人」と呼び習わすことで早いお帰りを願ったそうです。
と同時に、ヨセフのもとを次々に訪れる亡霊たち、兄であったり、兄に殺された知り合いであったりと様々ですが、それらの人びとをも指しているのだろうと思いました。
岩波にしては誤字脱字が目立ったようなのが気になりました。
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